「世界の終わり」の終わらない風景

 『ヨコハマ買い出し紀行』が終わってしまった。のである。
 実は、この作品からいつの間にか遠ざかったままで、たまたま『アフタヌーン』を久しぶりに手にとって、アルファさんに再会しようと思ったら、いきなり番外編が載っていたので、コトの次第を知ったわけである。――この作品は、ヒーリング系に分けられる漫画なのだろうが、率直に言って、この作品に接して“癒された”ことはない……私は。初めて読んだとき、物語のコンセプトとは裏腹に――否、それゆえに?――物語空間のすみずみにまで、なにか尋常でない“緊張感”が張り詰めていることに、圧倒された。この“緊張感”が何に由来するかは、様々に言及できるだろうが、いわゆる「世界観」的な、<データベース>の要素に還元できるような“細部”とは、明らかに一線を画す“細部”――他の諸物語が物語世界を構築するさい、「世界観」的なディテールの「設定」という感触が拭えないのに対して、『ヨコハマ買い出し紀行』の場合、(<神>たる)作者が見た<世界>の、その視界のすみずみまで描出せんとする意志、というか、本来“造物主”として振舞えるはずの<作者>が、みずから創り上げた――創り上げようとしている<世界>にあえて“内在”して(このことを示唆するエピソードがいくつか書かれているのは、ファンには分かるはず)、その場所から360度の視界に入る風景すべてを“絵”として定着させようとする姿勢が、読者に、知らぬ間にある種の“緊張感”を強いている。これほどソリッドな物語世界を構築した作品は、近年ないのではないか。
 終末をめぐる物語で想起されるのは、ワタシ的には新井素子の代表作『ひとめあなたに……』。「地球最後の一週間」の人間たちの囚われた狂気のさまざまなかたちを、あの文体で抉りだしていたのに、鮮烈な印象があった。“<世界>の終わり”が契機となって、ラヴ・ストーリーが駆動するという構成だが、これが逆、ラヴ・ストーリーが契機となって“<世界>の終わり”が駆動する、ということになれば、これはいわゆるひとつの「セカイ系」となる。赤川次郎が巻末解説で、「未熟さでなく、「八方破れの完成度」とでもいうしかない、みごとなバランス」と評しているが、“<世界>の終わり”を現前させることで、ある種の“狂気”を何のエクスキューズもなしに物語に結晶させた作者の感性を、当時二十歳そこそこの若手SF作家ゆえ、ということには到底還元できない。
 伊坂幸太郎の近作『終末のフール』は、“<世界>の終わり”までまだ間がある。一連の終末狂騒を経て、落ち着いたときの物語で、物語世界の内実としては、『ヨコハマ買い出し紀行』にちょっぴり近くなる。最後の人類の“格率”とでもいうべきものがテーマで、そこでアフォリズムが効いてくる。作者の語り口のクールさもますます洗練されてきて、いよいよミニマリストの境地に達した感がある。
 さて、ふたたび『ヨコハマ買い出し紀行』だ。この物語の世界でも、すこしずつ<世界>が水没していっているのだけれども、果たして、“<世界>の終わり”が招来した後なのかどうなのか。――ひとつ言えるのは、『ひとめあなたに……』の“狂気”とも、『終末のフール』の“格率”とも、この物語は無縁であるということだ。これは、ある種のパラノイアが解体されているということでもある。しかし、だからといって<世界>は分裂を呈さない。むしろ、<世界>に“内在”する<作者>の、彼の意識が、なんというか、強烈な吸引装置となって、四散しそうになる物語のあらゆるエレメントを(かろうじて)繋ぎとめる。これは、物語が秩序立っているということではない。むしろ、その対極に位置する。しかし、反=物語というには、この<世界>に“内在”するキャラクターたちは、あまりにも陰影深い。

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

終末のフール

終末のフール

ひとめあなたに… (角川文庫)

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