大倉祟裕『福家警部補の挨拶』(東京創元社)レビュー

本日のエピグラフ

 私の思いこみかもしれないが、君は最初から私を疑っていたようだった。(中略)君はいつ気づいたのかね?(「オッカムの剃刀」P134より)

福家警部補の挨拶 (創元クライム・クラブ)

福家警部補の挨拶 (創元クライム・クラブ)


 
ミステリアス8 
クロバット8 
サスペンス8 
アレゴリカル8 
インプレッション9 
トータル41  


 笠井潔の探偵小説論は、探偵小説のムーブメントが、世界大戦における「大量死」がもたらした“主体”の固有性の剥奪という事態に対応(もしくは抵抗)したものであるとしたうえで、「大量死」の陰画たる「大量生」の時代の渦中に復権した探偵小説ムーブメントたる「新本格」とは、“主体”の匿名性ということで通底するとして、これらを理論づけた。「新本格」が胎動をはじめた80年代後期の日本はまさに消費社会文化(論)の真っ盛り、50〜60年代における消費社会という文化戦略たるアメリカニズムを模倣して、いつのまにか世界第二位の経済大国に踊り出てしまった島国は、その達成を無邪気に謳歌していた。同時期のアメリカそしてイギリスはレガーノミクス、サッチャリズムという言葉に表される新自由主義路線の真っ只中である。70年代は、アメリカにとっての転換点にあたり、またヴェトナム戦争は言うまでもなく彼の国にトラウマを残す。この時期に『刑事コロンボ』シリーズは生まれた。――倒叙ミステリは、犯罪心理を焦点にすればサスペンスに分類されようし、探偵役との知的闘争を主眼とすればスリラーとも銘打つこともできる。それでは『刑事コロンボ』はといえば、このどちらの呼称もあきらかに相応しくないだろう。それはなぜか。それは、まさしくこの物語の主眼(あるいははっきりと“主題”といったほうがいいかもしれない)が、固有性の剥奪という事態に対抗することにあったのではないか。笠井はセイヤーズ『誰の死体?』を評して、「「誰の屍体?」を執拗に探求する探偵行為は、(中略)人間らしい尊厳を、ようするに固有の名前を回復させようとする、(中略)自己回復行為」と述べている。また綾辻行人十角館の殺人』における、探偵小説の巨匠の名前をニックネームとするキャラクターたちについて、「大量生の時代が強制的にもたらした匿名的な主体、主体ならざる空虚な主体に過ぎないという鬱屈が、青年たちに輝かしい過去の名前を選ばせる」と言及した。――数々のゲスト・スターが虚構の空間で凶行に手を染める。『十角館の殺人』のキャラクターたちのニックネームと実名との落差は、逆転したかたちでスターたちの芸名と彼らが演ずる役名に対応しているのではないか。犯人となるキャラクターのなかには“有名人”もいるが、やはり注目されるのはその職業(もしくは社会的地位)だろう。“俳優名”‐“役名”−“職業(社会的地位)”の認知の連繋のうち、“役名”は相対的に低くなる。“役名”に表象されるキャラクターは、演じられている俳優によって、“固有性”の後光をかろうじて得ている。――犯罪者は、逮捕され起訴されれば、この者の行為は刑法の用意する構成要件の類型に回収され、投獄されれば“主体”は囚人のひとりとして監視されることとなる。コロンボとの完全犯罪をめぐるゲームは、俳優の後光によりかろうじて“固有性”を獲得したキャラクターの、この者自身の“固有性”を賭金にした戦いなのだ。……とすれば、『刑事コロンボ』はまさしく「本格」といっていいのではないか。探偵小説形式を転倒させた「倒叙」ものは、テレビドラマの形式を借りることで、「本格」の精神的基底を継承することができた…………さらに付言するのならば、『古畑任三郎』シリーズが始まった90年代の日本は、ひたすらネオリベ路線を突っ走ったが、新自由主義への転換点に、「倒叙=本格」のミステリドラマが作られ人気を博すのは、とても興味深い。――そして、『古畑任三郎』は終幕し…………
 …………そして、本格ミステリ界のホープコロンボへのオマージュをあからさまにした、「倒叙」もののシリーズが開幕。『刑事コロンボ』シリーズのノベライズの経歴のある作者だけに、四編とも、おさえるべき物語的ツボを外さず、読者を刑事と犯罪者の、当てこすりと化かしあいに満ちた、駆け引きの場へと誘ってくれる。特に、疑惑の始点が思わぬところに存在する「オッカムの剃刀」と、伏線の妙味が堪能できる「月の雫」が面白かった。