斉藤環『生き延びるためのラカン』(バジリコ)レビュー

生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)



 
ラカン分からんアッケラカンというのは、いしいひさいち現代思想の遭難者たち』のなかにあるギャグだけれども、もしかしたら反ラカニアンの分析家たちの間で言われてたことなのかもしらん。本書はそんなラカン理論をざっくばらんに解説した、「日本一わかりやすいラカン入門」。ちなみに「わかりやすい」とは、「知的に早熟な中学生ならすいすい読める」というレベルだそうで、あたしゃ責任持ちません。けれども、とりあえず、主体シニフィアンにメッタ斬りにされたあとの残りものが対象aで、主体はこれに振りまわされる、の一部しか愛せない、だって「女性はすべてではない」から――ということを押さえておけば、いいんじゃないかしらん。そんでもって、本書は「表象精神病理」の肩書きでテクスト批評を実践する著者本人への、格好の入門書でもある。あえて毛を吹いて疵を求むるとすれば、ロリコンペドファイルを同一視しているところかな。ラカン理論ではどういう扱いがなされているのかわからんけれども。…………「どんな体験がトラウマになり、それがさらにどんな症状に結びつくのか、まったく予測がつかないということだ。こういう経験をしたらこんな性格になりますよ、といった「図式」は存在しない」と言い、このような定型によりかかった「安直なサイコミステリー」を難じているが、フロイトの「誘惑理論」に女性患者たちが縋ったように、「図式」に依拠した「安直なサイコミステリー」にミステリファンのみならず、一般読者も飛びついたのは、もしかしたら“市民社会”のうそ寒さに“教養”市民層が神経症的症状を示していたということなのかも。「精神分析の過程そのものが、およそ再現性に乏しい、一回限りの固有な経験である」のなら、大量に頒布される「図式」的小説は“大衆”のココロを癒しているのだろう。探偵小説が単なる“大衆”小説として消費されるか、“謎”をめぐる“物‐語”として享受されるかは、「女性はすべてではない」ということをどれだけ咀嚼することができるか、だよな。