第7回「本格ミステリ大賞」発表記念座談会に行ってまいりました


6月10日に行われた件のイベントに行ってきたわけですが、さて何か感想を記そうと思っても、細かいところまで思い出せないです。予想以上にポーっとなっていたみたい。巽昌章氏がツカミに「論理の蜘蛛の巣の中の人です」と言ったのには、ニヤリとした。――で、やっぱり、道尾秀介氏の「本格ミステリほど<人間>を描くのに適したジャンルはない」との発言ですね(言い回しちがったかな)。これを受けて、巽氏か法月綸太郎氏が、「新本格」が「人間が描けていない」と批判されていたころの<人間>と、現在の<人間>の意味するところが変容しているというようなことを言った(と思った)。…………伊藤整が「戦前のプロレタリア文学が果たせなかった資本主義社会の暗黒を、清張が描き出すことに成功した」と評価したのは、有名な話で、プロレタリア文学も大元を辿れば自然主義に行き着くわけだから、といっても少なくとも清張ブームは昭和40年過ぎには終わっているわけだし、笹沢左保森村誠一や夏樹静子などが「新本格」として括られるのはこの後。それで、復刊ブームが起こって、戦前黄金時代期の作家が「再発見」されて、これが『幻影城』ムーヴメントに繋がってくる。『本格ミステリ07』に収録された巽論文「宿題を取りに行く」では、「戦前探偵小説、戦後再出発した探偵小説、そして昭和五十年代の読者や潜在的な書き手、この三つの層にわたる「若さ」が、幻影城という奇跡的な器に湛えられていた」ことを指摘したうえで、この「若さ」というものについて「この雑誌が残した宿題」として、「現代推理小説は成熟したのか、そもそも成熟とは何か、そして、なぜいわゆる新本格以降成熟という観念は大声で語られなくなったのか」という問題が提起される。巽は、佐野洋の「探偵小説の再評価」に対する批判、即ち「読者が我慢して読まねばならないような稚拙な小説を発掘するな」という牽制を批判的に採りあげるのだが、この佐野の見解に対して栗本薫や編集長の島崎博のように「遊びや良き時代のエキスといった趣味性でもって受けるのは、いかにもぬるいという気もする」。より根本的な反駁として、「小説とは何か、文章とは何か、成熟とは何かという場所で切り結ぶべきだった」が、綾辻行人以降の「新本格」台頭の後には、このような「問いかけは封印されてきたに等しい」。巽は、「佐野が論破されてたわけでも、ひとつひとつの論点で妥協案が見出されてたのでもなく、地すべり的に発想の基盤が変わってしまったのだ」と述べる。――いわゆる『推理小説年鑑』に三十年以上にもわたる連続採用記録を保持して今もなお現役で執筆を続ける佐野の作風が、ミステリ文壇に好まれたのは、佐野の小説が「大人の小説」、「市民権」を獲得した小説、というような印象を持たれたのは間違いない(無論、ミステリ作家としての技量の確かさを前提として)が、要するに、「小説」を「大人」に饗することのできるように洗練させることに佐野のモチベーションはあったわけだ(このことに関しては、佐野の功績の大きさは否定できない)。別の言い方をすれば、「小説」における象徴的秩序を「市民」に通用するかたちに編み直していった。翻るに、現在の「新本格」においては、どうか。「「推理小説らしさ」を求める読者は、トリックを、より広く言えば奇抜な思いつきを要望してやまない」傾向は、その強度の方向性は違っているのかもしれないけれども、まだ確実にあるだろう。問題は、「地すべり」的にこの傾向が、佐野の問題意識を済し崩しにしてしまった、という点にある。『論理の蜘蛛の巣の中で』のレビューで、“トリック”こそ「ふるさと」ではないかと記したことがあるけれども、これを踏襲するなら、「ふるさと」とは<現実(界)>のことであるから、つまり「小説」における象徴的秩序が破れて<現実>が貌を出す、そんな「小説」が、少なくとも「新本格」として受容されてきた、ということがとりあえず言えるのではないか。――そして、おそらくは、ミステリ・探偵小説における<人間>の意味の変容は、「地すべり」以前と以降に対応しているように思うのだ。佐野の想定するところの「市民権」なるものが、一般社会に流通するに足る、という意味合いであればそうであるほど、<象徴界>に絡め取られる、シニフィアンに従属せざるを得ない<主体>を前提とした「小説」を目指すしかない。そのような<主体>=<人間>は、無論、その者の行動やら倫理やらは、最終的に“法”的秩序によって決裁されるものでしかないだろう。換言すれば、人為的制度であれ慣習・因習であれ、それからの逸脱の度合いによって、「小説」もしくは<文学>的な感興が第一義的には粗述されるということである。それに対して、「象徴的秩序が破れて<現実>が貌を出す」ような「小説」では、そこに存在する<主体>=<人間>たちは、戦火を眺めて「夜の空襲はすばらしい」「そこには郷愁があった」と呟く坂口安吾のように、象徴的秩序の破れ目に「郷愁」を覚えてしまうような存在で、その意味では正しく「幼稚」なのである。<主体>において<象徴界>よりも、<想像界>の機能する領域が大きくなると、「オタク」文化の問題となるが(とこれは斉藤環の説を踏襲)、それでは「新本格」が「探偵小説」を「オタク」的に受容したのかといえば、否といわざるを得ないだろう。「新本格」に括られる小説に、いわゆる叙述トリックをメインであれギミックであれ用いた作例が、無視できないほどの数にのぼるのが、その証左といっていいのではないか(しかし、「新本格」が「オタク」的に受容されたのは、周知のとおり)。いづれにせよ、旧い“シニフィアン”に対する懐疑というか、あるいは「逸脱」が「小説」もしくは<文学>的な主題に無条件になりうる環境に対してのシニシズムが、<人間>の変容に深くかかわっているのではないか。
 …………ということを薄っすら思いながら、話を聞いていると、(たぶん)綾辻行人氏が、「宇山さんは、自分は<人間>を読むために小説を読んでるじゃない、と言っていたけれども、そんな宇山さんに、道尾くんを引き合わせたかった」(概略)ということを言われたのですが、同感、この出会い損ねに、思わず嘆息する。あと、巽氏が自著について語られたことについては、それこそ「宿題」ですね(って、細かいところ思い出せない。やっぱ、メモ持ってくるんだった)。…………お願いですから、この座談会、是非活字化してください。