桐野夏生『メタボラ』(朝日新聞社)レビュー

メタボラ

メタボラ


 
 作者の小説的主題は、エコノミーの論理に還元されぬ“自由”のありようの追求にあるのだろう。エコノミーの論理、というのは、つまりは“代償”なり“犠牲”なりというコトバで“自由”の帳尻を合わせる、ということである――小説内において。桐野においては、いかに“代償”なり“犠牲”というコトバで表象されるのが相応しい“情況”であれど、それが“自由”であれば、それはそのようなものとして、端的にある。『OUT』から『グロテスク』にいたる文学的な模索は、作者にそれを確信させる過程であった、と思うのだけれども。…………という観点から本作を見ると、作者は180度と言わないまでも、90度くらいの態度変更をはかっているように見える。本作で描かれるのは、“自由”以前の“情況”だ。“情況”こそが解放されているように思える。果たして、作者は転向したのだろうか。京極夏彦の『鉄鼠の檻』では、檻から出るためには檻を作らねばならぬ、という逆説が語られていたけれども、つまるところそういうことだろうと思う。何から解放されるのか。どこへ向けて旅立つのか。ただ単に、困窮する社会下層の“情況”の活写が、作者の目的では、当然ない。解き放される“情況”からの逃走線がいかに引かれるか、作者は手探りしていると見るのが妥当だと感じるけれども、その模索ぶりを<小説>に昇華させてしまうのは、作者の膂力。