加藤典洋『太宰と井伏』(講談社)レビュー

太宰と井伏――ふたつの戦後

太宰と井伏――ふたつの戦後


 
太宰と井伏、ときたら、二者間の確執を追った猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』というわけだけれども、本書は、猪瀬の見解に留保をつけつつも、太宰の自死の(文学的位相における)真相に迫る。著者の太宰論とすれば、『敗戦後論』所収「戦後後論」の十年以上ぶりの続編、ということになる。「戦後後論」では、太宰のふたつの短編「散華」と「トカトントン」を並べて、「トカトントン」の幻聴に悩む元兵士の若者に、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」という聖書の文句を引用していなす太宰は、「散華」における「大いなる文学のために、死んでください。」という言葉を送る「三田君」、戦争の死者に連帯しているという。このような太宰のありかたに対して、著者が対置するのがサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』等のテクストなのだが、それから時を経て、本書では、なぜ太宰が「戦争の死者への同情と後ろめたさ」に引きづられるかたちで自裁せざるを得なかったか、が文献を跡づけて読み解かれる。それは同時に、井伏鱒二において、“戦後”というものがどのような意味を帯びて顕われてきたか、をめぐる問いでもある。…………著者の見解に、若干の異論があるとすれば、ただひとつ、井伏「薬屋の雛女房」と太宰「姥捨」、このふたつの小説のキーパーソンたる小山初代を、“戦後”における、「家庭の幸福」を受け容れた太宰にとっての「他者」であるとしているけれども、「薬屋の雛女房」が「他者」たる小山初代を召喚したのならば、この小説を紡いだ井伏は、一体何だったのか。「しかし、いったい、自分の味わったことがらが、人にわかるか。井伏にわかるか。そういう思いと、初代のその後味わったことがらが、人にわかるか。自分にわかるか。」と太宰に思わせる小説を書いた井伏は、太宰にとって何者だったのか。――つまり、井伏こそ「他者」だったのではないか。著者のいうように、井伏が「薬屋の雛女房」を書いたのには、他意はなかったにせよ、「太宰の死の意味は、時代が下るにつれて、徐々にそこで「悪人」と呼ばれた井伏には、了解されてきた」のならば、それは、ある親しい人間に対して、しかし気づかぬうちに、いつの間にか、自分が「他者」として立ち現れていた、そのような情況で、いかに振る舞うべきか、誰に対して、何に対して――そして、この意味で「他者」というのならば、太宰もまた、井伏にとっての「他者」として、立ち現れていたに違いないのである。太宰と井伏の対立は、そのまま「戦争の死者」と“戦後”におけるなにものかの対峙と、相似を描く。太宰が「身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」と聖書を引用するとき、井伏は「いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」と書き付ける。が、太宰も実際には、「トカトントン」の主人公のモデルとなった若者に対して、「出来るだけわがまま勝手に暮らしてごらんなさい」と助言していた。そんな太宰を、井伏は知らぬ間に「戦争の死者」の側へと追いやってしまう。井伏は「悪人」だったか。しかし「悪人」と指弾した側が、悲愴な自死を遂げるとき、果たしてどちらが善き生を送っているといえるか。所詮「他者」同士だから、その生は通じ合わない、とするのか。この問いに折り重なるかたちで、やはり太宰や彼が背負ったものに対する責務の感情が、井伏にあった。――このようなものとして、“戦後”が拓かれるとき、この問題性は“戦後”以後にも、射程を伸ばすものでもあるのだろう。