「予言」する探偵小説3

 1998年に刊行された『戦後の思想空間』は、「現在が戦前だからなんですね」という刺激的な一節で始められる。大澤真幸がそのように言う根拠は、柄谷行人の「昭和・明治平行説」で、コンドラチェフ景気循環論を想起させる、六十年周期で歴史は一サイクルを構成するということなのだが、柄谷は現在はこの倍、百二十年周期説を唱え始めている。が、それはともかく、六十年周期で日本の近代史を眺めた場合、95年のオウム真理教事件は、大本教弾圧事件と(その二ヵ月後の)二・二六事件に対応しているのが解る。オウム真理教事件の孕む問題性に社会思想史的にアプローチした大澤の前作『虚構の時代の果て』の、実質的続編にあたるこの本は、江藤淳『成熟と喪失』、加藤典洋敗戦後論』などのテクストや、または丸山真男や戦前の「京都学派」とりわけ西田幾多郎田辺元の思想的態度、そしてポストモダニズム思潮を、大澤自身の<資本主義>システム論と関連付けて検討し、現在の社会に潜在する根源的な困難を指摘している。それは即ち、「僕らの困難というのは、自由の可能条件ともなる、あの予言する超越的な他者の位置が空虚だということなんです」。
 大澤の展開する、<資本主義>論、そのメカニズムについては、当書や他の大澤の著作を参考にして頂きたいが、ここでは、<資本主義>が半必然的に、(予言する)超越的な他者の位置を“空虚”にしてしまう、ということを押さえておく。<資本主義>というのは、飽くなき普遍性を追求する運動なのだが、それが普遍性=超越的な他者への到達不可能性を露顕させてしまう。――ところが、この「普遍性への到達不可能性」が、<資本主義>内部において不可避であること、このことを悟ったものが、このことを媒介として、逆説的に、最も“普遍性”の境地に立っている、というアクロバットが生じてしまうのだ。そうするとどうなるか。「普遍性=超越的な他者」が不可能であることを体現するような、そのような「超越的な他者」を積極的に措定してしまう、そのような表現こそ、もっとも「普遍性」に到達した、そのように感受されることになる。これを大澤は「否定的超越性」と呼んでいる。――“超越性”とは、当然その内に抽象性を抱え持つが、それが否定されるのだから、それは具象性を帯びることになる。さらに、“超越性”であるからには、それは<外部>に存在するわけだが、それも否定されるのだから、「否定的超越性」は、内在するものに求められなければならない。…………大澤は、日本の軍国主義ファシズムにおける「天皇」や、オウムにおける麻原が、まさに「否定的超越性」だと指摘している。だから彼はこのように牽制せざるをない。「我々は空虚を回避するのではなくて、空虚をまともにひきうけなくてはならないのでしょう」。
 …………さて、この「超越的な他者」の“空虚”を引き受けるということ、このことが、「“作者”という位格を否定する<作者>」の物した「メタ・ミステリー」に相即していること、いわばこの探偵小説的実践と捉えることは可能ではないかと思う。これに関しては、私たちは十指に余るほどの名作・傑作を挙げることができるだろう。竹本健治の「ウロボロス」連作、笠井潔の「天啓」シリーズ、奥泉光の『「吾輩は猫である」殺人事件』『グランド・ミステリー』、山口雅也の『ミステリーズ』『日本殺人事件』シリーズ、山田正紀の『ミステリ・オペラ』――近作では先にあげた柄刀一『ゴーレムの檻』や恩田陸『ユージニア』などが同様の実践として評価することができる。――笠井『探偵小説と記号的人物』に収録されている往復書簡で、巽昌章は、「作品全体を支配する大きな構図、ひとつの世界観の出現がクライマックスであるような小説」が新本格シーンで多く描かれたが、「それがここしばらく、微妙に崩れてきたようです。(中略)構図自体の破綻や裂け目、世界観の分裂や混乱を印象づける小説のほうが増えてきた感じがします」と述べている。これは足掛け二年の間に交わされた書簡の第一信で、その後笠井とのやりとりのうちに<本格>における「端正と過剰」という問題性に議論はシフトするが、巽との往復書簡の最後に笠井は、「「大きな物語」の消失による私と世界の分裂は、とりあえず、観念に代わるものとして妄想を産出しました」と、暫定的な結論をおく。――「世界観の分裂や混乱」が、そのまま「超越的な他者」の“空虚”という事態の反射的効果であることは論を俟たないと思うが、しかし、「超越的な他者」の“空虚”の後に、「観念に代わるものとして妄想を産出」するとなると、この「妄想」は、あの「否定的超越性」を帯びるということになりはしないか。芦辺拓が『グランギニョール城』のあとがきで、「メタ・ミステリー」を擬態する“夢オチ”小説に苦言を呈していたけれども、「“作者”という位格を否定する<作者>」という存在が、そのまま、「超越的な他者」の“空虚”を引き受けることを保証せず、むしろ「否定的超越性」を帯びた「妄想」を無限に生産しないとも限らないだろう。
 『本格ミステリこれがベストだ! 2002』では、巽は笠井との往復書簡の他にも、「悪夢は現実、現実は悪夢――島田荘司論」を寄せている。これは、島田の近年の“作風”の変容を跡付けたもので、「ひとことでいえば、作家たちがこぞって「意味」を求めていたときに、彼だけは「無意味」をめざしたのだ」。――「理想的なトリック中心主義とは、(中略)作品中での出来事あれこれを、すべて犯人ないし作者のたくらんだトリックの周りに配置し、これを基準に意味づけしてしまうことだろう。こうした強引な意味づけの衝動が、世界そのものによって事件を意味づけるというところまで拡張されてゆく」。これに対して、島田作品は、「逆に、出来事からその意味を剥ぎ取ろうとするかのような気配をしだいに濃く漂わせるようになっている」。「意味」が剥離した「出来事」の「累積」。とするのならば、この「出来事」というのは、レヴィナス的な意味での、<主体>が引き受けることもできず、それに対して何もなしえない、といったニュアンスに近くなる。――「事件を意味づける」ために要請される「世界」は、そのロジックが<世界>に内在してかつ可視化している限りにおいては、それは「否定的超越性」を被っていると言えるかもしれない。巽は翌年の書簡で、島田の『魔神の遊戯』に言及しているが、「そこで暴露されるのは、ある孤独な妄想と外界とが滑稽かつグロテスクな形で接合していたという事実でした」。「妄想」についての言及が、その「妄想」が無根拠であるにかかわらず(/それゆえに?)<世界>に浸透しているということ、そのことに「意味」を見出すのではなく、その「無意味」さを確認する(「無意味」の意味化)のでもなく、巽が『ハリウッド・サーティフィケイト』の読後感として述べた如くに、「無意味なままに出来事が増殖し、連鎖してゆく」のを眺めるのに徹するということ。「妄想」を眺めることができるのは、まさしく「悪夢」という位相においてしかない。
 …………ところで、「予言する超越的な他者の位置が空虚」であるということは、どういう「困難」を呼び出すのか。先にも引用したが、「歴史のような形で記憶を蓄積することができなくなるわけです」と大澤は言う。「予言」にしても「歴史」にしても、“現在”の出来事(=時間的継続を伴う“事象”)が、その将来において“完了”した時点から、一連の出来事を表現する、いわば「事後の視点を事前において先取りする」という言説構造において共通している。大澤は、この<記憶>の可能/不可能性について、例えばホロコーストのような戦争にかかわる「歴史」問題と絡めて問題提起しているけれども(当然といえば当然だけれども)、「予言する超越的な他者の位置が空虚」であるという事態=<記憶>の不可能性が、果たして究極的に<探偵小説>の不可能性に至ってしまうものなのか、90年代からの「メタ・ミステリー」の実践が、<探偵小説>の不可能性の遅延ではなく、その個々のテクストが、<探偵小説>の可能性というかその次の展開を用意する沃土であらんことを願ってやまないのだが。
 (それでは、麻耶雄嵩神様ゲーム』は、いったいどういう位置づけになるのか、ということになるのだが、これは「否定的超越性」の次に大澤が提出した、暴力的な“超越性”(=「凶暴な父、猥雑な父」)、「裏返された「第三者の審級」」に対応していることになるのだけれども、それはまた別の問題)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

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