高橋源一郎『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』(文藝春秋)レビュー

さよなら、ニッポン

さよなら、ニッポン



 本書の最終章「22 さよなら、ニッポン」で、タカハシさんは、「自然」がなくなってしまった世界=ニッポンの「今」について、そこでの書かれるべき「ことば」のありかたについて、問いかけて、この長編批評を終わらせているが、この本が上梓されて一ヶ月後、葬られた「自然」が劇的に回帰する“出来事”が起こった。奇しくも、タカハシさんは、この四月から朝日新聞の論壇時評を担当することになったが、そこでのタカハシさんの発言に、注目したい。――小島信夫の遺作『残光』の検討からはじまり、しかしタカハシさんの関心は、ニッポンの「今」に確かな感触を残す諸作品へと、次々と移っていく。読者は、批評は『残光』へいずれ回帰するだろうと思っていると、否ずっとはぐらかされ続けることになるのだ。それでは、最終結論が、「さよなら、ニッポン」=「自然」がなくなってしまった世界、と措定したくとも、前述したように、「自然」は災厄となって回帰してきた。つまり、本書の読者は、本書の“外部”からも、裏切られ続けることにまたなるのである。文芸誌連載終了から二年も経って世に出したのに、こんな事態になるなんて。「ニッポンの小説」は、これからどんな「モード」に突入するのだろう。