「終わり」の時代の終わり



 おそらくは今年の話題作になるだろう、大澤真幸の『不可能性の時代』は、見田宗介パースペクティブを下敷きにした、“戦後”の精神史区分「理想」(=1945〜70)「虚構」(=1970〜95)の“時代”のあとに来るものとして、「不可能性」なるものを措定して、その時代的意義と困難の諸相を問うたものである。実質的には『虚構の時代の果て』の続編的位置付けであるけれども、これだけで読んでも支障はない――と思うけれども、『虚構――』や『戦後の思想空間』、本書のプロトタイプにあたる『現実の向こう』を併せて読んだほうがわかりやすいかもしれない。本書の論点は多岐にわたり、要約はとてもできないので、実際に読んで確かめられたいが、ここで触れたいのは、「終わり」という感覚の“終わり”ということである。東浩紀の議論を参照して、「ゲーム小説」における「反復」というモチーフを、大澤は「終わることが容易ならざることであること、終わらせることが非常に困難なものであること」の表現であるとする。「終わり」とは何か? 「偶有性の感覚――他でもありえたのではないかという感覚――を克服する」ことである。要するに、あるイベントに対して、「終わり」を(公式に)宣言しなければ、「偶有性」を「必然性」に転化できず、「これでよいのだ、これしかなかったのだ、と結果を受け入れ」ることができないからだ。このとき、「終わり」は、大澤のいう「第三者の審級」からなされた判断・決定として、人々に感受されることとなるが、つまり「終わり」が困難であるということは、この「第三者の審級」の超越的な権威が剥落しているということ、即ち「第三者の審級の撤退」という事態である。それでは、「終わり」を回復するには、一体どうしたらよいのか。一番安易なる解答は、徹底的に「終わ」らせる、「要するに、全的な破局をもたらすこと」である。撤退していく「第三者の審級」を引きとめることはできない、なぜなら、それは我々自身の認識の運動たる「相対化」の産物なのだから。ところが、「すべてを否定したとすれば、これを相対化することはできない」。徹底した破壊は、絶対性を帯びるゆえに、「超越的な第三者の審級が回帰してくるだろう」。このようなかたちでしか、「われわれは救われないのだとすれば、やはり事態は絶望的である」。…………今年の問題(提起)作として注目される須原一秀自死という生き方』を、批判するとしたら、この観点によってからは、とりあえず有効だろう。この「一人称的」な“死”の哲学は、あまりにもあからさまに、この大澤の見立てに合致している。反面、大澤の描く「不可能性の時代」の処方箋は、“他者”を必要とする限りにおいて、「一人称的」な否定性の前では、無力であるかもしれない。「一人称的」な否定性は、“他者”(の存在、その許容性)を包括するかもしれないからだ。
 鷹城宏の「赤朽葉家というせかい」「ふたたび赤朽葉家をめぐって」のふたつの論考が、大澤のパースペクティブを導入していて必読。赤朽葉家三代の生きた時代が、大澤の時代区分とそのまま対応しているという鋭い指摘だが、ならば、赤朽葉瞳子のパートが、「不可能性の時代」を裏側から体現しているのは、これもまたあからさまであるように思える。なんとなれば、彼女はこの“小説”の「作者」なのだから――大澤の指摘するように、「作者」は「第三者の審級」を淵源とする存在である。彼女は、先代のパートに対しては、この伝記小説の「作者」として振舞う。そして、自らのパートでは、まだ終わらない自伝の書き手として存在する。「不可能性の時代」の困難を克服するのに、大澤は「無神論への突破」の道筋を描くが、それとは別に、“終わらない”ことを、「反復」の牢獄にはまることなしに、真正面から引き受ける方途を、これは示唆してはいないか。無論、この方向が易きに流れれば、チープな保守が量産されるおそれはあるにしても。

不可能性の時代 (岩波新書)

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自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

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