法月綸太郎『怪盗グリフィン、絶体絶命』(講談社)レビュー

本日のエピグラフ

 (前略)わしらが二人とも安泰であることが、おたがいの信頼関係のなによりの証なのだから。(P195より)

怪盗グリフィン、絶体絶命 (ミステリーランド)

怪盗グリフィン、絶体絶命 (ミステリーランド)


 
ミステリアス8 
クロバット9 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション8 
トータル42  


 ヴォネガットへのオマージュも露わに、“政治的に正しいお伽話”ならぬ“論理的に正しい政治的お伽話”を拵えた。『猫のゆりかご』が、核/冷戦争時代の寓話であるならば、本作はネオコン時代の童話。『容疑者Xの献身』がネオリベ本格ならば、本作を同時刊行の綾辻びっくり館の殺人』とともに、ネオコン本格と呼ぼうか(笑)。いや、しかし、両者“人形”という存在がフィーチャーされているのは、実に奇遇だなあ。ある程度、問題意識に通底するものがあるのだと思う。
 「かつて冷戦時代に、米ソが核兵器のバランスによって、全面戦争をふせいでいた」のより、「はるかに安あがりで、賢い」と自認する方法で、「運命共同体」となった二人の革命指導者。しかし、意図せざる“偶然”の交差で、この「運命共同体」は、アイロニカルなものへと反転してしまう――あるいは、偶有的なものへ、と。要は“因果応報”(もしくは“罰当たり”!)ということを目論んでいるのだが、そのこと自体が“因果応報”の結果を招来してしまうのだ。<他者>に<自己>を預けることが、政治的権威の源泉となっていたが、これと呪術的世界における<身体>性の齟齬が、権力者のアキレス腱となる。ところが、<外部>からやってきた人間も、この“ボコノン島”のコードに従属してしまうのである。これは、ネオコン的価値観が「文明と野蛮」を臆面もなく唱えることの、その反転を企図したものとして捉え返すことができる。“ボコノン島”の磁場が、“アメリカ”なるものの圏域を脅かさない限りにおいて、“ボコノン島”の平和は保たれるが、例えば、<マニの呪い>の影響により、何らかの政治的・経済的混乱が起きて、アメリカ・ドルが使えなくなるような事態が(もしくは、そのような恐れが)出来したら、政治的介入の口実にはなるだろう。逆にいえば、“アメリカ”なるものの圏域から逃れるためには、“ボコノン島”のコードを自己完結させなければならない。あるべきものを、あるべき場所へ。