「予言」する探偵小説4-Ⅲ

今回の文章も東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 富樫と「富樫」は、果たして、同一「宇宙」に存立しているのだろうか? ――論理的な操作を加えて、富樫と「富樫」を同一「宇宙」上に存在せしめようとしても、それは、おそらく「富樫」がホームレス「技師」であることの効果である。…………しかし、「富樫」=「技師」と見ずに、あくまで、富樫と「富樫」を同一「宇宙」上に存在せしめようと企図するならば、実は参考になりそうな身近なケースがある。それは、同姓同名、即ち、複数の特個的対象が、同一固有名を有している、というケースである。
 三浦俊彦は、クリプキの人物像について解説したエッセーで、「同姓同名にかかわる指示の不確定性が私には気にかかる」として、この問題性について触れている。固有名「a」と呼ばれる人物が複数いたとして、発話者が「a」さんと呼んだとき、一体どの固有名「a」を有する人物が直示されているのか? ――無論、この場合、発話者が同一固有名「a」を有する複数の対象人物の、彼らそれぞれの人となり、即ち自分の「意識の来歴」を彼らそれぞれに対して持ち合わせている、というのが前提となる。例えば、同一固有名を有する対象人物が二人いた場合、「同姓同名の事実は二つの名前認識に影響を及ぼしているはずだから、当の固有名の「因果線」は二つの起源へと分岐遡行すると言わねばなるまい」。――「しかし固定指示子の指示対象は一つのはずである」。「そこで「正しい果線」がどちらなのかを決める基準」は、発話者が「どちらのつもりで「決意」して発話したか、に求められる」。「よって「決意」の内容を決めるのは何か、を物理主義的に(行動主義的にであれ経理論的にであれ)解決する必要が生ずる。それが解決できなれば、指示が因果によって定義されるのではなく、逆に因果が指示によって定義されねばならないのではないか、という疑惑が生じてくるだろう」。
 それでは、富樫と「富樫」において、この「同姓同名」のケースを準用して、彼らを同一「宇宙」上に存在せしめることができるか? これは、発話者を、認識上のどのレベルに設定するかによるだろう。具体的には、「富樫」が富樫のニセモノであることを認識している<発話者>のいる「宇宙」において、富樫と「富樫」はそこに帰属せられる、ということになる。このことは、次の二点を含意している。①“富樫”と名指される特個的対象が、実は、富樫と「富樫」の二つの個体による構成体であること、②「富樫」が、富樫のニセモノであること、以上を<発話者>が認識している場合において、である。――イメージで言ってみれば、富樫と「富樫」、この二つの個体をボールにたとえて、この二つのボールを、大きな不透明の袋の中に入れるところを想起する。そして、この袋には“富樫”と大書きされている。<発話者>の認識において、この“富樫”とラベリングしてある大きな不透明の袋しかないときには、“富樫”という名指しによって直示される「宇宙」には、富樫と「富樫」は一緒に帰属することはできない。この袋のなかに、実は二つのボールが入っている、ということを<発話者>が認識しただけでは、まだ富樫と「富樫」は同一「宇宙」上に帰属させることはできない。“富樫”と名指すことが、まだその袋全体を直示しているのだから。この二つのボールのうち、一方が富樫で、もう一方が富樫のニセモノたる「富樫」である、と<発話者>が認識して、はじめて<発話者>の「決意」が可能となるのだ。
 ということは、“富樫”=富樫が存立する「宇宙」と、“富樫”={富樫と「富樫」(=富樫のニセモノ)}が存立する「宇宙」、この二つの「宇宙」が出来してしまっていることにほかならない。「宇宙」は、もともと単一性を有する。なぜこのような背理が現前するのか? それは言うまでも無く、「宇宙」を指示する<発話者>がそれぞれ違う場所に存在するからだ。『容疑者Xの献身』という探偵小説の空間において、<名探偵>湯川による“真相”の提示により、<読者>は、前者の「宇宙」から後者の「宇宙」へと飛ばされる――富樫殺しの実行者たる花岡母娘も、また。問題は、石神が、一連の隠蔽工作で、結果的に企図したのが、花岡母娘を前者の「宇宙」に封印しようとしたところにあるのだ。