「予言」する探偵小説4-Ⅱ

今回の文章も東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 ラッセルにおいては、固有名は「短縮(省略)された記述」であるとされる。これに対して、クリプキは、固有名が記述に還元できないと論じた。――この<世界>において、特個的な対象へ向けて、“名指し”の行為が成立するのは、どういう理由であるのか。「顔のない屍体」トリックが成立する、その根拠を探るのに、重要な示唆を与えるはずだ。
 固有名が「短縮(省略)された記述」である、というのは、要するに、「○○は、〜〜で、〜〜〜で、〜〜〜〜で…………」と、固有名「○○」が、「〜〜」であり「〜〜〜」であり「〜〜〜〜」であり(以下略)、という確定記述の「短縮(省略)された」表現である、ということである。これについて、三浦俊彦は『ラッセルのパラドックス』で、実際の“名指し”のシチュエーションを言挙げて、「その名は、本当に固有名として機能しただろうか」と問いかける。mさん、という人を名指すとき、私たちは、mさんを初めて知ったときからの、mさんに関しての自分の記憶や印象などをベースにして、その自身の「意識の履歴」に見合った「一貫した連続的実体」を有する「ひとりの人間」として、名指すわけだが、実は、厳密にいえば「固有名mを使ってあなたが確実に指示できているのは、その瞬間のmさんの断片だけである」。固有名mを、mさんについての自分の「意識の履歴」に見合った「一貫した連続的実体」を名指すのであれば、「mは固有名ではなく、確定記述だと認めざるをえない」。この限りにおいて、これは「論理的虚構」なのだ。「論理的虚構」というのは、直ちにそれがそのように存在するとは限らない、という意味である。固有名mが指示するのは、「その瞬間のmさんの断片だけ」であるのだ。――しかし、私たちは、通常この「論理的虚構」に依拠して“名指し”行為を行っているわけだ。ここで、ラッセルの記述理論から離れれば、ある人間に対する、複数の人間の「意識の履歴」の最大公約数的なものが、その人間の(社会に流通する)“像”になるのは、半ば必然的といえるだろう。「顔のない屍体」においては、その“屍体”のフィジカルなデータや事件現場の諸痕跡をベースにして、他の人間の「意識の履歴」やパーソナルな“像”などを参照にして、この“屍体”の身元を特定していく。いわば、「論理的虚構」を“屍者”の来歴として確定していくということ。――ここに詐術が介在する余地があるのはいうまでもなく、さらに、これは「変身」テーマと表裏一体にあるのだ。
 さて、このような固有名が「短縮(省略)された記述」であるとする見解(「指示の記述説」)に対する反措定が、クリプキの「指示の因果説」だ。これは、要は、固有名「○○」が、「〜〜」であり「〜〜〜」であり「〜〜〜〜」であり(以下略)、という「性質」は、必然的ではなく、偶然的であるということで、ある性質が特個的な対象を指示したとしても、それは固有名の指示対象ではない。例えば、作家aが『○○殺人事件』という作品を発表したとして、その後、『○○殺人事件』の実作者が作家bだったことがわかった、というケースで、「指示の記述説」に依拠すれば、固有名「a」の指示対象を決定する性質が「『○○殺人事件』の作者である」ということにあるとしたら、「作家aは、『○○殺人事件』の作者ではなかった」という言明は、「『○○殺人事件』の作者は、『○○殺人事件』の作者ではなかった」と言い換えられるが、これは意味が通らない(レトリシズムの効果はあるだろうが)。あくまで、作家aは『○○殺人事件』の作者ではない、というのが真意である以上は。――しかし、そうすると固有名はいかにして特個的な対象を指示することができるのか。少なくとも、「指示の記述説」は確定記述によって、特個的な対象を選別しえた。…………そこで、「指示の因果説」が出てくる。固有名がそれ自体、指示機能を持つとしたら、固有名それ自体に、直示の機能が付与されていることになる。直示とは、「あれ」「これ」などの指示代名詞の作用のことで(ラッセルはこれを「論理的固有名」と呼んでいる)、例えば、ある個体に対して「これは、○○である」と、直示を経由して固有名が与えられることにより、これが機能するのだ。クリプキはこのことを「命名儀礼」と呼んでいる。この後、この固有名は、当該個体が属する共同体内部を、そのメンバーの間に伝達されるわけだが、当該固有名が伝達される際には、当然のこととして、この伝達の受け手が、当該固有名の指示する特個的対象(の認識)をも受け取らなくてはならない。
 こうして、ある固有名における特個的対象の指示が固定するのだが、ここで、大澤真幸は『意味と他者性』のなかで、ある問題提起をする。「指示の因果説」において、「対象の同一性を決定するときに不可避に構成されなければならない「差異」がどこに存するか」ということである。「指示の記述説」はこの同一性を決定するときの“他”との「差異」、という問題をクリアーにするのだ。…………大澤の結論は、「その差異とは、宇宙の同一性を区画するような境界なのだ」。ここでいう「宇宙」とは、「可能世界を含めたすべての世界のクラス」のことをいう。ある個体のことを「a」と「命名儀礼」する。このとき、当該個体についての反実仮想を語る際にも、「もしaが、〜〜であったのならば…………」と表現せざるを得ない以上、「可能世界」にも固有名の効果は及ぶ。つまり、固有名の指示は、換言すれば発話者たる<私>の直示は、その直示が到達する範囲、即ち「宇宙」を指示することでもあるのだ。――記述における、“差異”による同一性とは、「○○は、〜〜ではなく…………〜〜〜〜である」というような言明であるが、「宇宙の同一性を区画するような」“差異”とは、「○○は、存在しない、ということはない」というような言明である(なんとなれば、「宇宙」の“外部”は積極的に措定され得ない、簡単にいえば直接に“表現”できないから)。
 …………それでは、それぞれに固有名を持つ、複数の特個的対象があったとして、それでは、そこではその数の分だけの「宇宙」が言及されているのだろうか。――これについて、大澤は、以下のように述べる。「①当該固有名によって表現された諸個体が直接に関係している場合か、あるいは、②それらの個体が共通の他の固有名(によって指示された個体)との直接の関係に結び付けられている場合」、それら固有名(による指示)が、同一「宇宙」に関与している。たとえば、①は固有名「a」は固有名「b」の親友であるとか、②は「a」と「b」は固有名「c」学園の生徒であるとか、そのような場合である。…………さて、ここで考えてみたいのは、『X』におけるふたりの“屍者”、富樫と「富樫」のことである。これが、富樫とホームレス「技師」に関してなら、即座に②が適用できる(富樫と「技師」は日本に住んでいる、など)。それでは、富樫と「富樫」は? ――これは、そのまま、富樫と「富樫」は、果たして、同一「宇宙」に存立しているのだろうか? という問いにつながる。…………この命題の効果は、そのまま、「富樫殺し」の実行者である花岡母娘の<存在>の基底に、及んでくるはずである。



意味と他者性

意味と他者性