「予言」する探偵小説4-Ⅰ

今回の文章は東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 『容疑者Xの献身』という作品に対して、それを探偵小説的なアプローチで言及する場合、従来の「顔のない屍体」トリックがメインのモチーフとして、物語の屋台骨となっているという約め方は、しかし、なにか非常にもどかしい印象を、読了者に与えるのではないか。「純愛」小説的側面を措いておいているのは元より、である。あくまで、探偵小説的なアプローチという意味においてだ。――むしろ、「顔のない死体」トリックという約め方が、それがそれで、探偵小説的なテクストにおける、パズルの正解である、そうであるがゆえに、なにかこの「顔のない屍体」トリックに孕まれる“過剰”な意味性を、取りこぼしているのではないか、そのような心持になる。作者が、「顔のない屍体」トリックに、フィジカルな欺瞞以上の意味を持たせたのについては、一応テクスト内部に言及がある。千街晶之の言葉を借りれば、「殺人犯としての不退転の意識を自らに芽生えさせるために殺人を犯す」という逆説的論理だが、これが、花岡靖子という自ら「何の取り柄もなく、平凡で、大して魅力的とも思えない」と認識する女に対する「純愛」を成就させるために、罪なきホームレスがいわば“供犠”として捧げられた、という表象を与える根拠として機能している。ここにおいて、“探偵小説”と“「純愛」小説”は幸福な止揚を遂げ――というか、“探偵小説”は「純愛」共同体を活性化させるためのトリックスターとして、「純愛」共同体内部に正当な地位を占めることができた、といえる。それでもって、この「“探偵小説”と“「純愛」小説”の幸福な止揚」に異を唱える、これの「否定弁証法」、「非同一的なもの」を追求しようとするところに、この作品に対する探偵小説批評の目下の焦点があるのだろう。しかし、これらの論及が、笠井潔が『CRITCA』の座談会で指摘するとおり、「とくに石神というキャラクターの捉え方があまりにバラバラだった」、それぞれの論者の指摘する石神というキャラクター像の相違、その互いの乖離の具合は、各論者のパフォーマティヴな振る舞い、その批評的な戦略のベースとなっているもののそれに、言うまでもなく対応している。石神というキャラクターの来歴、そのストーリーの浚い方の多様性は、この“探偵=「純愛」”小説における亀裂を探すモチベーションに由来していると言ってもいいように思う。――そして、その個々の実践が、共時的な、もしくは先行するテクストを経由(あるいは迂回)してなされる以上、『容疑者Xの献身』は、クリステヴァのいう間テクスト性がもっとも意識されている場であると(少なくとも、現在の探偵小説テクストにおいては)言えるかもしれない。が、しかし(/そうであるがゆえに?)、例えば『ミステリマガジン』における誌上討論が、フェノ・テクストの展覧会の如き様相を呈している感が否めないのは、各論者の個別の実践に不純なものがある、というのでは決して無く、だけれどもその個々の見解が、何だかまだ“騙し絵”を構成しているような、そんな気分に囚われる。テクストの“意味”の生成源たるジェノ・テクストの、その作用力学が、何かあらぬ方向に働いているようなのだ。――そのように言う今回の文章も、また余計な“騙し絵”を提供するだけなのだろうが。
 石神の実行した「顔のない屍体」トリック――花岡母娘が殺害した元夫の富樫の“屍体”を、石神自身が殺害したホームレスの“屍体”と入れ換える。その際、当然「顔」は潰すわけだが、この真意を隠蔽するため、“屍体”の指紋も潰し、“屍体”の衣服も脱がして焼却する。が、“屍体”の指紋は現場に放置された盗難自転車にプリントされており、“屍体”の衣服もその焼却は、衣服の痕跡がかろうじて留めるくらいで止める。なぜか。石神の真意は、“屍体”の身元が同定されることにあったからだ。最終的に、富樫が利用したレンタルルームに、身代わり“屍体”役のホームレスの利用痕跡を残し、そのレンタルルームに捜査陣を誘導することが目的である。こうして、警察によって、名無しのホームレス「技師」は、「富樫」という名前を死して与えられることになる。――しかし、なぜこの偽装工作が、花岡母娘の犯罪を隠蔽することになるのか? 「富樫」を殺したのは、花岡母娘であるのに変わりはないだろう。ここで、何が欺瞞されているのか? ――ここで欺かれているのは、「富樫」の殺害時刻である。実は、富樫が花岡母娘に殺害されたのには、一日分の時差があった。ここに、本作のサプライズがある。「富樫」の殺害時刻は、三月十日夜。富樫が花岡母娘に殺害されたのは、ちょうどこの前日である。つまりは、石神の真意は、花岡母娘による「富樫殺し」を、自らの「「富樫」殺し」により、いわば上書きしてしまうこと、これである。…………ここで、『容疑者Xの献身』は、実はデータベース本格であった、とやりたいところだけれども、そっちにはいかない。…………この上書き行為により、第一義的に目論まれたのは、花岡母娘の絶対不在証明の成立である。この絶対不在証明は、ただ単に殺害時刻を違えている、「「富樫」殺し」のときには、花岡母娘にはアリバイがある、というレベルに留まらない。要は、富樫と「富樫」の<身体>の相違に、その根拠がある。「富樫」の“屍体”は、それの死亡推定時刻が正確に特定されるように、石神は捜査陣を誘導するための工作に細心の注意を払っている。が、たとえ「富樫」の“屍体”の死亡推定時刻が正確に特定されず、一日以上の幅が出た場合でも、「「富樫」殺し」の実行者たる石神がその証拠を示せば、あるいは「富樫」の“屍体”そのものから、殺害者たる石神の痕跡が出てくるかもしれない。――そして、実際には、<名探偵>湯川の事件への介入により、この最後の切り札を用いらざるを得なくなるが、いま一度考えてみたいのは、なぜこのような欺瞞が成立するのか、ということだろう。『名指しと必然性』などのクリプキの議論によって、固有名が記述に還元できない、その固有名を担う個体の性質などの記述と置き換えることはできないとされているが、その固有名が、社会(共同体)内部において、ある個体に対する「名付け」行為(新生児やペットの命名、ニックネームなど)を根拠として、個々の人間の識別行為に一定の寄与を果たしているかぎり、即ち「指示の因果」があるかぎり、 ラッセル的な了解が共同幻想として機能する。 「顔のない屍体」トリックは、この間隙を衝くのだ。