本日のエピグラフ
- 作者: 霞流一
- 出版社/メーカー: アクセスパブリッシング
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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ミステリアス | 8 |
アクロバット | 9 |
サスペンス | 8 |
アレゴリカル | 8 |
インプレッション | 9 |
トータル | 42 |
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イマドキの探偵小説におけるサービスショットとは、土ワイPM10:00過ぎの乳出し死体のことではなく、嗚呼美味礼賛、主人公らがメシを喰うシーンであります。いや、現代本格シーンにおいて、メシを描かせたら上手い=美味いひとといったら、北森鴻と霞流一が双璧でしょう。本作では、メシ、それも鉄板焼きの、あの油と醤油・ソースの香ばしい匂いが、炒めるときの美音とともに、十二分に堪能できる。なんて官能的だ。それだけでなく、主人公とレッドヘリングたちの交わす軽口も、今まででサイコーにくっだらねー。特に、色情狂の焼きソバ屋とのカラミには腹よじれた。巨乳の焼きうどん屋のねえちゃんとのくだりには、悶絶。後光が見えたです。鉄板モノリスは、シュールで、ここに珍死体が張り付けられるもんだと思ってました。――意外だったんだけれども、過去の霞作品で、商店街をメイン舞台にした作品って、二三あったと思ったけれども、もしや『おなじ墓のムジナ』(角川文庫)以来? ちゅうことは、ある意味、原点回帰ということになる。……と、思っていたら、サル知恵の罠に嵌まることになる。
日本のクラシカル・フーダニット、殊に七十年代後半から現在に至るまで、いわゆる「幻影城ムーヴメント」から「新本格ムーヴメント」に至る系譜に、この“本格”復興運動に、日本型スノビズムが介在したのは間違いないだろう(アレクサンドル・コジェーヴが来日した1959年は、奇しくも、創元推理文庫が発刊した年でもある)。「日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち、「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている」。このコジェーヴの論及は、思えば、現在の本格ミステリシーンを、その興隆の内実を十分に抉っている。「人間」をパズルのピースにまで還元するモチベーションは、実は私たち<日本人>の、「「人間的」な内容をすべて失った価値」に内在しているかもしれないんですね。コジェーヴが日本型スノビズムのマトリックスとして注目したのが江戸時代という天下泰平の御世であるわけだけれども、ちゅうことは、いまから二、三百年前に<本格>を可能にする精神性は遡及できるわけだが、少なくとも「大量死」論を批判している論者がこういう反論をしている形跡はありませんな。ただインネンつけているだけで。――ともあれ、「「無償の」自殺」を可能にするまでの、あまりにも形式主義的な精神性が、クラシカル・フーダニットを<本格>へと、日本ミステリを独自に洗練させてきたのは、英米のディテクティヴノベルと比較検討して、そのナラティヴな構造性の差異に注目すれば、明らかだろう。
――で、霞流一のアドバンテージは、実はこのような日本型スノビズムとは、比較的遠い位置にいるところにあるのではないか。確かに、不可能犯罪や見立て殺人等、探偵小説の様々な意匠は毎回凝らされているが、小説全体から受ける印象は、探偵小説的ガジェットの過剰さというよりは、登場人物のモノマニアックなパフォーマンスの横溢さだ。むしろ、探偵小説的意匠はそれに従属している、というか息を吹き込まれているといってもいい。私にとって、「バカミス」の“バカ”とは、パラノイアの謂いである。「「無償の」自殺」を極限とする、苛烈にして空ろな精神性。これに対して違和感を覚えるミステリファン(主に翻訳ミステリファンだろう)は、霞の繰り出すギャグとブラックジョーク、下ネタとパラノイアの狂騒曲に、正しく<猥雑>さを見出すのだ。スノビズム的探偵小説において、不可能犯罪とは、何より洗練され、また求道的なものでもあるのだろう。霞ワールドのそれは、ブラックユーモアの極限のカタチである。大団円で、連続見立て殺人の真相=深層について為される推理は過不足なくこれに当てはまるのだけれども、一昔前に流行ったPI+サイコ小説の、その結末で為される通俗精神分析を踏襲してながら揶揄しているいるようで、面白い。
しかし、霞流一はますますハイアセンに似てきたような。これから書かれる作品は、クライムノヴェルにより傾斜したものというので、期待大。