法月綸太郎『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』『複雑な殺人芸術』(講談社)レビュー

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術



 
 あ、そうか、もう「大量死と密室」でレヴィナスに触れていたのでした。いやしかし、如何せんもう十年以上前のことでしたので…………というわけで、著者の批評家としての膂力をひたすら堪能、ていうかひたすら勉強っすよ。著者が90年代の<本格>シーンに“形式”という自意識を持ち込まなければ、おそらく90年代版「新本格」は文芸運動として明確な“像”を結ばなかったと思う。日本ミステリ史的に中西智明『消失!』の出現でもって、学生ミステリサークル出身者によるムーヴメントは一段落しました、てな事後剔抉がなされたと思うんですよ、このあと麻耶雄嵩がデビューしようがしまいが。京極夏彦は80年代の伝奇SFムーヴメントのリバイバル的な扱いをされたのではないかしらん。でさ、やっぱ、流水とか舞城とか友哉とかは出てきたのかなーって思っちゃうんですよね。ちゅうことは、現代文学シーンは…………と取りとめもない仮想因果噺。野崎六助『北米探偵小説論』に「共にいること」ウィズネスという主題を見出した著者は、ブロック、ディーヴァーのビブリオグラフィに“政治”の影を見る――ナラティヴなレベルでも、「共にいること」ウィズネスは見出されるが、<作者>がいかなる存在と切り結ばざるを得ないか、という意味合いにおいて(週刊文春の『石の猿』の書評も収録してほしかったなあ)。「共にいること」ウィズネスを体現する重要な存在であるミラー=マクドナルド夫妻に、著者もまた言及しているが、ロスマクのテクストの犀利な検討により、「彼の文体に混在する主観的な一人称と“神の視点”の間の緊張関係」を指摘する。このあと、著者はロス・マクドナルドを「父の名」を「女に奪われてしまった男」と定位して、「ミセス」という呼称に拘泥したのが名作を産み出したモメントだったと、最後に付け加えるのだが、“私立プライヴェート探偵”の「プライヴェート」の語源は、ラテン語の「奪う」の過去分詞形に由来する。まさしく、「奪われた」存在としての私立探偵小説家。「アーチャーはわたしだが、わたしはアーチャーではない」のならば、アーチャーは「わたし」に奪われている。アーチャーは「「奪われた」存在」に奪われている。とするならば、アーチャーは<世界>から撤退することをナラティヴな地平において宿命づけられているのではないか。このような存在からは、“女”は<世界>というヴェールに隔てられ、立ち現れるのだろうか。