三津田信三『凶鳥の如き忌むもの』(講談社ノベルズ)レビュー

本日のエピグラフ

 それほど宗教者としての、独立心が強かったということでしょうか。鵺敷神社の巫女という存在に対する、自尊心と言いますか――(P54〜55より)

凶鳥の如き忌むもの (講談社ノベルス)

凶鳥の如き忌むもの (講談社ノベルス)


 
ミステリアス10 
クロバット9 
サスペンス9 
アレゴリカル10 
インプレッション10 
トータル48  


 刀城言耶シリーズ第二弾。前作『厭魅の如き憑くもの』は、メタフィクショナルな構成と、何よりも怪異を描出する圧倒的な筆力でもって、本格ミステリとホラーを止揚させたが、本作は伝奇小説的手続きを抜かりなくしながらも、真正面からの<本格>直球勝負。ハウダニットが必然的にホワットダニット(←って文法的に合ってるのかな)に繋がることをもって、猟奇譚としての効果を狙う。――ただ、その他にも、物語の主軸を成す<巫女>の扱いについても、前作と対照的だと思える。作中にも言及されているように、物語の舞台となる「鵺敷神社」は、土着信仰をベースとしながらも、「自らが研究したチベット密教から立川流までの様々な宗教的要素を加味」して当時の巫女が復活させた「鳥人の儀」を執り行っている。つまりは、共同幻想にコミットする<巫女>の本義とは違って、私的幻想に殉じているという意味で、言うなればエセ<巫女>であるのだ。この点からも、『厭魅――』とは対極的な設定が、周到になされている。「鳥人の儀」を復活させたエセ<巫女>は、国家神道も軍部も問題にしていなかった。彼女においては、「神の死」=ニヒリズムを通過して、“最後の神”が到来していたのか。ハイデガーにおいて、<存在>もしくは<精神>とは“炎”のメタファーで語られる。あとに残るのは“白い灰”だが、“炎”‐“白い灰”は、本作において、“大鳥様”‐“人骨”に類比できる。最終的に「鳥人の儀」が、その本義を貫徹できたのは、「戦後」、即ち現人神の人間宣言が為されてから後のことである。