石持浅海『顔のない敵』(光文社カッパ・ノベルス)レビュー

顔のない敵 (カッパ・ノベルス)

顔のない敵 (カッパ・ノベルス)


 
ミステリアス8 
クロバット8 
サスペンス7 
アレゴリカル8 
インプレッション8 
トータル39  


 石持浅海の作風をとりあえず措定するとしたら、「中間集団<本格>」ということになる。<国家>と“中間集団”の価値規範が相反することを念頭に置けば、石持作品における、ある種の“倫理”規範からの逸脱をモラリスティックに描出していることの意味合いが理解できる。『アイルランドの薔薇』『月の扉』では“テロル”の大義として、従来のレジスタンス小説と地続きで把握できたものが、『水の迷宮』『扉は閉ざされたまま』『セリヌンティウスの舟』では、インナーサークルの外界との切断のされ方に戸惑うことになる。要は、「罪と罰」の位相にまで、物語は射程を伸ばしているのだ。そこが石持作品の持つ過剰性である。しかし、この主題が、“近代的個人”の範疇から逸脱している――というより、それが解体されているのである。リベラリズムにおける「負荷なき自我」が、観念的(あるいは自己完結的)な剔抉を必要とするならば、コミュニタリアニズム的な“自我”は、精神的な負債を共同体に対して負うのか。作者が、この方向性に<本格>の新たな展開を睨んでいるのは間違いないと思われる。デビュー作「暗い箱の中で」においては最後に<犯人>は姿を消すが、本書の「地雷」連作においては、<犯人>は共同体のくびきから逃れられない。おそらくは完済されることのない“負債”というものに対する態度のありようを、“倫理”として描き出すのが作者の本意だとするならば、作者にとって「探偵小説」とは、受苦の寓話にほかならない。ディスカッションに力点を置くというスタンスでは、西澤保彦と同列と見られるが、西澤のが多重解決的な興趣を狙っているのに対して、石持のは共同体における“寄合”的儀礼に類比できると思われる。