大庭健『善と悪』(岩波新書)レビュー

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)



 「分析哲学に通じた倫理学者」である著者が、「倫理学」とはどういう学問なのか、ということを平易に説いた。「倫理学」とは何か、それは即ち「善と悪」をめぐる考察ということになるけれども、むしろ、版元を違えた新書著作である前作『私はどうして私なのか』『「責任」ってなに?』の続編として読んだほうがいいかもしれない。大庭の措定する<私>とは、「あなたにとってのあなたが、私である」、つまりは「対他存在」であるということで、「人間」とは「人‐間」という存在である。であるから、自分という存在をカッコで括るような自己特権化(ニーチェ的な!)は、脱「人‐間」的存在である、ということだ。――「善」と「悪」を述語的性質として捉える場合、即ち「○○は善い」「××は悪い」と述べるとき、この「善い」「悪い」は客観的性質なのかどうか、そして議論は“善悪”を判断する基準としての「道徳原理」はどのようなものとして存在するのか、というテーマへと進む。…………ポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、(述語的)評価語は、基本的には、表象する固有名詞をはじめとする、一個のパーソナリティに対して、使用されることはない。「△△さんは親切だ」「▲▲というヤツは冷酷だ」というときには、指し示された当該人物の所作やその人間の今まで成した行動の諸々を総合的に見て判断している。つまり評価語は、個々の行為やそれが集積して見えてくる行動パターンについて用いられる。このように使用される「濃密な」評価語は、「現に呼べば応じられる間柄」、「あなた」とか「△△さん」と呼びかけて<私>の意図する人物が応答する可能性がある集団内(だから「あなたにとってのあなたが、私である」のだ)で運用されることを通じて、これら「濃密な」評価語にたいする省察(「〜〜である、というのが善い、もしくは悪いのはなぜか」という反省)がなされ、「善い」「悪い」の抽象的考察が可能になる。即ち、「善」と「悪」とは、「濃密な」評価語に表象される「徳性」の諸々を、さらに総括した概念的使用であるのだ。…………そもそも、“言語”を理解し使用できるためには、「想像上の立場交換」を遂行する能力が必須である。発話者の話を理解するためには、聞き手は発話者の場所へ立つという意識(発話者へ“志向”すると換言してもいいだろう)なしには不可能だ。このことから、「現に呼べば応じられる間柄」内で「濃密な」評価語が使用されるとき、相手に対する「気づかい」が生起するのは必然となる。相手が「いわれなき苦悩」に苛まれているとき、その原因が人為的なものであればそれを除去しようと思わずにいられないし、その起因となるような行動を慎もうとするのが、感情の自然な流れだろう。――であるから、「悪とは善の欠如」というのは謬見であり、真理は「むしろ、悪の増大の防止に寄与するのが善なのである」。…………さて、この著者の暫定的な結論から、現実の“問題”はどのように診断されるか。著者は、“格差”問題と「いのちの選別」という二つのテーマを取り上げるが、私はやはり「いじめ」について思いを巡らさずにはおれない。早い話、集団的な犯罪行為が留めもなく暴走するのは、「現に呼べば応じられる間柄」内で、当該犯罪行為(の一連と、それに追従する態度)が、「善」と判断されているからにほかならない。被害者は、「現に呼べば応じられる間柄」から排除されている。あの教師が徹底的に間違ったのは、「現に呼べば応じられる間柄」の範囲を、ごく日常的な市民生活者の圏域にまで拡げることをせずに、目前の可視的な共同性に頼ったところにある。しかし、現行の学級制度が、個々の担任教師に学級運営のアフォーダンスとしてそれを強いているのならば、現行の制度は即刻廃止し(少なくとも、小学校入学当初は“クラス”を採用してもいいが、“クラス”のくびきを段階的にゆるめ、中学校以降は完全に廃止する)、コミュニケーション教育と初等法学のレクチャーを、小学校の段階から徹底させるべきだと思う。