内田樹『下流志向』(講談社)レビュー

本日のエピグラフ

 変な言い方ですけれど、かなり努力しないと、、、、、、、、、そこまで学力を低く、、、、、、、、、維持するのは、、、、、、むずかしい、、、、、と思うからです。(P16より)

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち



 
発売するやいなやベストセラーリストの上位を占めた。従来の内田読者には、本書の随所に、今までのエッセイで触れられてきたトピックが、「下流志向」というコンテクストで再度解釈されていることにニンマリするはず。それでは、そのコンテクストとは何か。それは、現在の若者は、「無知」「無気力」「無秩序」という“定型”に無理に自己を矯正=強制していくということ――要するに、努力して「バカ」になる、「アホ」を目指して刻苦勉励するという、「教養」というものに対するパースペクティヴのアクロバット、あるいはまさにコペルニクス的大転回とでもいうべきもので、これぞウチダ氏の逆説。このコンテクストにおけるキーワードは、「等価交換」の法則と、「不快」という<貨幣>。かくして、日出づる国の「学び」の制度は、求道的に流動化していったのであった。ポテチン。…………さて、このコンテクスト上に、著者は「日本型ニート」(欧米における「Neet」概念と区別するために、これを用語化したほうがいいと思う)に象徴される「労働からの逃走」という問題を剔抉していくのだけれども、これには労働経済学・社会学方面から異論が噴出しそう。ただ、どのような異論でも、それが著者の措定する「経済合理性」の範囲に留まっている限り、一笑に付すはずである。最終的に著者が提案する「日本型ニート」問題の解決案は、「「もうニートになった人」については、その人権を守る方途を考え、「これからニートになりそうな人」には「やめた方がいいよ」と説得する」。とりあえず現にいる「日本型ニート」をそのまま“社会”で養え、ということで、これには当然(本書のもととなった)講演会参加者からの拒絶があるわけだが、このような純粋な「贈与」、「時間」を回復させた「交換」という関係性を再構築することにより、「無時間」的な「等価交換」に規定された「経済合理性」というくびきから自由になることができるか、というこれは著者の賭けではあるのだ。…………といっても、著者が<労働>における「搾取」を、<労働>の「オーバーアチーブ」性でもって是認しているのは、私自身も肯うのだけれども、他方、<資本>家による「労働ダンピング」という事態を追認しかねない。この「労働ダンピング」(©中野麻美)というのも、企業側による「等価交換」的意識のなせる業であることは、著者の「学びからの逃走」分析を見た者にとってみれば、あまりにもあからさまである。官民挙げての「等価交換」主義がもたらす閉塞状況を、超克することはできるのか。
 …………で、そのような本書のコンテクストとは別に、ちょっと違ったところで思い入ってしまったのは、著者が「学び」の本質を、生物学的な生成変化に対応できる<主体>を育成することとして定位している点である。ここにおいて、ドゥルーズの問題意識と著者のそれが近接しているといっていいと思うのだけれども、ドゥルーズ=ガタリの資本主義分析が、ことに90年代におけるネオリベ路線の布石となったとして、(時には浅田彰と込みで)反グロ系論者から批判されているし、逆に彼らの分析を新古典派エコノミストが好んで引用していたりもする。著者は「消費主体」を「取引」以前と以後で変わらないものと措定するが、周知のように「欲望」論的な“生成変化”を、80年代型ポストモダニズムは(そして上野千鶴子フェミニズムも)「消費主体」に見出してきたのだった。本書にはドゥルーズ=ガタリへの言及は一切ないものの、“生成変化”というものに対するモラリスティックな態度が根本的に転轍されているという意味合いで、いわば「ポストモダニズム」の葬送の書という位置づけも可能であるし、ドゥルーズの一連の思索に新たな光をあてるのを示唆するものでもあるのだろう。