長い「さよなら」

 『ロング・グッドバイ』読了。当然/物好きにも、『長いお別れ』とチャンポンにして読んだのだけれども、いちいち訳文を比較していない。けれども、浮かび上がってしまう差異はあって、『長いお別れ』がミステリの結構というものを離れて、ある種のセンチメンタリズムに回収させてしまうモメントはよりくっきりしてきた、というか。『ロング・グッドバイ』が、村上春樹の意図する「都市小説」の構図(もしくは、『グレート・ギャツビー』と「魂」の兄弟としての)を読者に喚起させたうえで、新しいカタルシスを与えてくれるかどうか――は、論を俟たないことと思われる。『羊をめぐる冒険』も読み返さなくちゃ。…………『長いお別れ/ロング・グッドバイ』の末尾の文章は、『アクロイド殺し』のトリック、『Yの悲劇』の真犯人とともに、未読のうちになぜかそれを知ってしまっている知識のベスト3にはいる。即ち、是「教養」ということなのだろうが、「警官にさよならを言う方法はまだみつかっていない。」(村上訳。以下同じ)の「さよなら」の意味性を理解するためには、少なくとも二箇所の「さよなら」を押さえておかなければならない、と思う。ひとつはアイリーンの「多くの知り合いが空襲で命を落としました。その当時、おやすみと誰かに言うときには、それがさよならに聞こえないように気を配ったものです。」のところ。不覚にも、「おやすみ」と「さよなら」が、「グッドナイト」と「グッドバイ」というふうに掛かっているのに、いまさら気づく始末。ふたつめは、フランスの詩人から引用された、「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」。――「さよなら」とは、他人に別れを告げて離れる能動的な事態のことではあるが、それは自己が、自身がいるこの場から、撤退することでもある。「おやすみ」が「さよなら」に聞こえることが忌まわしいのは、相手を葬送することだけでなく、自分もまた目前の人間と切り離されることを想起してしまうからでもある。「さよなら」が、離別という事態を、相互的に、能動的な行為として覚知されてしまう(たとえ「さよなら」と告げられた側であっても)のだとしたら、自身に別れを告げたテリーは、マーロウに「さよなら」と言わせたのである。それが、テリー・レノックスの原罪/現在である。「警官」に「さよなら」を言えないのは、「警官」が「さよなら」というコトバを知らないからだ。この「さよなら」というコトバの表する、離別という事態の両義性については、矢作俊彦の『THE WRONG GOOD‐BYE』でも当然引き継がれる。…………にしても、村上自身による「訳者あとがき」は、ある種のチャンドラリアンの受容の仕方に真っ向から対立すると思うのだけれども。どんなものでしょうか。*1

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ

*1:村上のチャンドラー論「都市小説の成立と展開――チャンドラーとチャンドラー以降」の概要は、小鷹信光『私のハードボイルド』第7章参照のこと。