佐藤友哉『1000の小説とバッグベアード』(新潮社)レビュー

1000の小説とバックベアード

1000の小説とバックベアード



 
 「片説家」の役割が、「依頼人を恢復させること」で、「依頼人の精神のため、依頼人の人生のための片説であって、それ以上でもそれ以下でもない」のなら、「片説家」とは、“外傷”を癒すための<他者>の物語を提供する存在であるということになる。物語は、「片説家」を追われた男の、「『日本文学』」へ向けての地獄巡りという体裁をとるのだけれども、普遍性に到達できるのは「小説」、それを構成するコトバやそれを生み出したムーヴメント(これが集積されると「文学史」になる)そのものであって、個々の「小説家」の“自意識”は置き去りにされたままなのではないか、という疑念は作者のうちに確実にあるのだろう。となると、自分自身やその同類に向けて「片説」を紡ぐことが、「小説」なるものの起源である、との認識は出てきそうで、事実結末はそれを暗示しているのでけれども、そうするとやはり、作者は、次なる困難として、<近代>という問題に直面せざるを得ないのではないか。<近代‐読者>の内面を形成した、個人的な“黙読”という事態、「私が読む」ということに、「小説家」はどのようにかかわっていくのか。 「私が‐読む‐ことを‐書く」のか、「私が‐書く‐ことを‐読む」のか。…………佐藤友哉版『さようなら、ギャングたち』が読みたいぜ。