加藤典洋『考える人生相談』(筑摩書房)レビュー

考える人生相談

考える人生相談



 
筑摩書房のウェブサイトで連載中のQ&Aコラムを単行本化したもの。人生相談、というより、まんま“批評”という感じ。著者のパーソナリティということもあるが、それ以上に「質問」の内容が、なんというか、為にするものとして作られたような感じを受けるのだ。――これは、批判では決してない。例えば、これから生きるにあたって必要に迫られて為される「相談=質問」もあれば、「これから“人生相談”を始めます。何か相談したいことはありますか」と言われて考えてから口にされる「質問」もあるということで、後者よりも前者のほうが、切迫性のあるぶん“価値”ある「相談=質問」内容(=“回答”行為そのものに高い倫理性が付与されるような「相談」)であるとの評価は、正しくない。後者のような「為にする」ような「質問」が、切迫性のないぶん、より深いところの困難を抉りだすことは、充分に考えられることである。本書に収録されている「相談=質問」は、おそらく募られたときの原文から編集部が夾雑物を排したかたちに直しているのだろうが、それがもしかしたら、原文にもともとあった「切迫性」を殺いでいるのかもしれない。しかし、それらが著者に、「切迫性」の解消に還元されない、吐露される現在のさまざまな違和感の諸相を探らせる思考の所作を促す。時には、著者は「相談=質問」に対して、“回答”を逸らし続けたり、はぐらかしたりもするのだけれども、これは“違和感”の淵源を指し示すには、こちらからも別の違和の表明をもってしかできないこともあるということなのだろう。…………なかでも、白眉なのが、P81の「あらためて「なぜ人を殺してはいけないのか」について」の質問。この質問の前段がふるっていて、「「人を殺したことのある人でなければ人の命の大切さはわからないじゃないか」と反問されるような気がする」とある。そして、「「いや、答えられないのが今の日本だろう」、といわば挑戦状を突きつけられているような感覚になる」とも(この質問は、P178の「他人の常識と、自分の常識と、かなり開きがある場合があると最近感じるのですが、それはどういうことなんでしょうか」という問いにも通じるものでもある)。著者は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という“問い”が「一人歩き」するきっかけとなった、某ニュース番組の若年者を中心にした討論会のエピソードから始める。私自身も、このときの場面を実際に視ていたので、著者同様、この“問い”が、この“問い”の主体たる若者の真意を慮ることなく、メディア間を「一人歩き」することに、苦虫を噛み潰したような感慨を抱いたことを覚えている(まあ、今から思えば、あれは仕込みだったかのかなあ、思わないでもないけれども)。だから、この質問に対する著者の見解に全面的に共感を覚える。ただ、そのうえでひとつ付言するならば、例えば西谷修が指摘するように、ハイデガーホロコーストを主題化できなかったのは、彼自身の哲学的主題の構造的盲点のゆえだった。<人間>の生と死について、ある特定のかたちにしか認識できないとき、その<外部>に留め置かれる事態は、もはや地獄ですらないのかもしれない。「なぜ人を殺してはいけないのか」という“問い”には、暗黙の前段として、「自分は人を殺すつもりは毛頭ないけれども」というエクスキューズがある。本当に「人を殺す/殺した」者には、この“問い”は端的に不毛である。問題は、「人を殺してはならない」と声高に謳う者たちが、彼らの<外部>で「人を殺す」可能性だろう。絶対禁止の倫理性のハードルが高くなることは、もしや<外部>に<人間>(の生と死)を葬る契機を増大させるかもしれない。