佐藤健志『夢見られた近代』(NTT出版)レビュー

夢見られた近代

夢見られた近代



 「戦後民主主義」者の大塚英志サブカル批評なら、「本格保守」の著者が構築するのは、ポップ・カルチャーの政治学である。巻末の「解題 幻想政治学とは」に、そのマニフェストが示されているが、「虚実革命」のもとの「現実」総体を「客観的・実証的」に分析する「政治論的」な必然性は、極めて説得的なものだ。このソリッドな視線から、夢見られた“近代”でしかなかった日本の現在の、欺瞞と怯懦を容赦なく暴きだす。たとえば、いまや国民作家たる地位を占めた宮崎駿は、自らの下の世代を圧殺することで矜持を保つ大人世代の象徴である。かねてよりの宮崎アニメ批判が極まったかたちだが、『もののけ姫』以降、宮崎アニメに「「上の世代に何をされても恨むな」とする含みが入りこんだとたん、映画が桁違いに当りはじめた」現象に、自らの未成熟ゆえに次世代の成熟可能性を殺す欲望を見る著者の批判には、充分過ぎるリアリティがある。そしてそれゆえ、是枝裕和監督の『誰も知らない』のラストシーンを「革命前夜の光景」と称えるくだりは、硬質な批評を読むときにのみ与えられるカタルシスがあるのだ。――本書には、「白人」−「日本人」の対位が底流となしているが、これなどは日本的“近代”の批評空間では、近代‐封建的遺制の対位として呼び表されたものだ。戦後のみならず、戦前の“近代”まで、著者は「白人」コンプレックスとして剔抉していくが、このあまりにも生々しい表象により、私たち日本人の、右も左もない集合的な道化ぶりがあらわにされていくのである。著者が、さらに恐怖映画や特撮映画を分析して、読者に刮目させるのは、「滅び」の持つ可能性だ。日本の現在という場に当てはめれば、再「本土決戦」ということである。「(…)ゴジラは最低限あと一回復活して、現在の日本にとどめを刺す必要がある。そのような作品が完成するとき、わが国の戦後処理も本当に終わったと呼べるのではないだろうか」。