仲正昌樹『自由は定義できるか』(バジリコ) 大屋雄裕『自由とは何か』(ちくま新書)レビュー

「自由」は定義できるか(木星叢書)

「自由」は定義できるか(木星叢書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)



 
政治・社会哲学における最重要文献の一つとして常に挙がる、バーリンの「二つの自由概念」。言うまでもなく、「消極的自由」(〜からの自由)と「積極的自由」(〜への自由)、二つの「自由」の相違について述べたもので、バーリンは「積極的自由」は、「真の自我」を追求するあまり、「個人的な自我」を超越した「種族、民族、教会、国家、また生者・死者およびいまだ生まれきたらざる者をも含む大きな社会」をその根拠として求めてしまう危険性を指摘し、以て「消極的自由」のほうを賞揚する。「積極的自由」は、「ある高遠な、とりとめのない理想の名において、人間から、かれらの人間としての生活に欠きえないと思われる多くのものを奪い去る」のに対して、「消極的自由」は、「人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実を認めているからである」。“第二次世界大戦”“冷戦”が、この「二つの自由概念」の、軍事的(あるいは覇権的)対抗状態であったことは言及するまでもない。…………とはいえども、この「二つの自由概念」が、まったくの二律背反として機能しているわけではない。大屋雄裕は『自由とは何か』のなかで、井上達夫の論を引いて、「消極的自由が自由の名に値するためには一定の資源が必要」で、それが「人々にある程度平等に配分されるようにする」ためには、「人々」が「公的な意思決定過程に参加すること」ができなくてはならず、これは「積極的自由に他ならない」と注意を促し、仲正昌樹も『自由は定義できるか』で、「積極的自由」における「真の自我」の追求=「自己実現」の暴走を懸念するからといって、「親密圏におけるプライベートな自己実現にさえも制約」したら、「不自由」になる(と「消極的自由」論者は認め、自己決定権だけは尊重せざるを得ない)と、指摘している。…………と、ここまでの話だったら、「消極的自由」と「積極的自由」をそれぞれ、「人々」の享受できる利益を最大化しうるように、適宜使い分けるようにすればいい、ということにしかならないだろうが、コトはそう単純にはいかない。この「自由」を享受する<主体>、この「私」の能力や価値観などが変容し、今までそれと意識していなかった環境が、「不自由」だと認識されることもある。仲正の言い方を借りるならば、「自己実現の過程の中で、各種の「消極的自由」への欲求が生じてくる」。裏返せば、この「私」における各時点での「消極的自由」的欲求の足跡が、そのままこの「私」における「積極的自由」の軌跡と跡付けることも可能であって、もっと穿てば、「消極的自由」の賞揚と実践が、「自己実現」=「積極的自由」を暴走させる契機を孕んでいるかもしれない。…………と、「自由」と「不自由」をめぐる定義や実質は、その境界線は常にゆれているといっていいだろう。仲正のは、古典的自由主義から始めて、英米系の政治・法哲学と、カント、マルクスにおける「自由」概念を棚ざらえしたうえで、コーネルの「イマジナリーな領域の権利」へと話をつなげる。大屋のは、法哲学のアウトラインを押さえた上で、「監視社会」化と「アーキテクチャ」という現在的なテーマを経由させて、自由主義社会をささえる「主体」の意味を問いなおす。大屋は、「責任」を担いうる「主体」=「自由な個人」という擬制を「いまだなお信ずるに足るフィクション」であると主張する。これは、コーネル=仲正のいう「自己再想像」の権利、「自己決定」するに足る「主体」性を育む(メタ)権利という概念と、個々人の“試行錯誤”を担保するということを通じて、接合できるものだと思われる。