遠山敦『丸山眞男――理念への信 (再発見日本の哲学) 』(講談社)

丸山眞男――理念への信 (再発見 日本の哲学)

丸山眞男――理念への信 (再発見 日本の哲学)



 何が切ないって、こんな時に丸山眞男の「原型」論に今一度まみえることが。「生成のオプティミズムに貫かれた世界像」と集団的功利主義が結託するとき、全体的長期的展望を欠いた、状況主義的対応しか“政治”は執れなくなる。「理念」もしくは「イデー」へのコミットメントの欠缺は、「原型」即ち「執拗低音」と相補的関係にあって、「原型」は、「執拗な持続力」を以て「体系的な外来思想を変容させ、いわゆる「日本化」させる」、換言すれば、「日本思想史はいろいろと変るけれども、(…)ある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変る」と、丸山は剔抉した。…………丸山の描く“近代”の成立は、要するに、西洋世界においてキリスト教が世俗権力と対立して、世俗的階層性から個々人の意識が解放されるとともに、「宗教の政治からの自立」が、ギルドや自治都市などその後の様々な社会集団の形成のモデルケースになり、個々人が社会関係を自由に創設できるようになった状況を指す。キリスト教的共同体であった西洋国際社会の「なかへ」引き入れられることにより始まった日本の“近代”は、結果として、「普遍主義」が外来のもので、反動で「身内」へ凝集した「土着主義」が起立してくる。外と内の文化的対立状況は、「日本化」の機制で解消されるが、そこに「主体性」を成立させ成長させる「絶対的超越者」の存在はない。日本思想史のなかに「主体性」を出来させる契機を探る丸山の思考の過程を、本書は丸山の仏教論や『忠誠と反逆』、荻生徂徠論と福沢諭吉論を閲して追うが、日本思想史という「ネガ」像の中から、「新たな規範意識」という「ポジ」像を剔出しようとする丸山の試みは、しかし、それが「具体的に提示されることはなかった」と、著者は嘆息する。