笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』(南雲堂)レビュー

探偵小説は「セカイ」と遭遇した

探偵小説は「セカイ」と遭遇した



 90年代半ばに、加藤典洋が『敗戦後論』を発表したとき、左右両極から、批判の集中砲火を浴びたが、その主だったのは、いわゆる脱国民国家論をベースにしたもので、即ち、加藤が“戦後”を考えるにあたり“国民”という枠組みを否定しない、と述べたのに対して、高橋哲哉らが“国民”批判の立場から、加藤のことを反動ナショナリストとして総攻撃したのだが、現時点における限り、ほぼ孤立無援状態だった加藤の認識が正当なものだった、少なくとも現在の思想状況においての共通認識になっていると、判断せざるをえない。“国民”批判の空虚性は、ますます際立っているといっていいだろうが、それよりも、私がこのことから得た教訓は、ある論件についての賛否の数などは、その正当性(不当性)の証明に何ら寄与しない、ということである。社会主義の失敗、新自由主義の崩壊を顧みれば明らかではあるけれども、この「敗戦後論論争」においては、このことがあまりにもあからさまに示されていた。――で、『容疑者Xの献身』論争における笠井潔に、この加藤の姿が、どうしても重なって見えてきてしまうのだ。私は、笠井の『献身』における“読み”が、このテクストの持つ可能性を殺してしまっていて、とても賛同できない。が、笠井が『献身』肯定派に向けた批判の、状況論的根拠には、その説得力を軽んじることはできない、と思う。本書は、「探偵小説」を取り巻くその状況論に関する諸論を収めたもの。ポスト冷戦的状況の、一国における精神史の剔抉でもある。笠井における「セカイ系」へのコミットの核心は、「セカイ系の主人公に感情移入する少年たちは、大量死=大量生の「終わりなき日常」の彼方に、「輝かしき非日常」があるという理想主義的観念をすでに信じていない」という一文に表されている。「少年たちは空虚や無意味を消費の対象とすることで、かろうじて「虚構の時代の果て」を生き抜いているのかもしれない」。小森健太朗は、「セカイ系」と探偵小説を繋ぐ作家である西尾維新の本格作品に、様相論理学的問題を見出した。笠井における「二一世紀探偵小説」のキーワードは、「空虚」、そのさらなる深化ということになるだろうか。この点で、重要になるエッセーは、「異様なワトスン役」だろう。…………笠井の提示するパースペクティブに反駁するとすれば、やはり、「セカイ系」的妄想にコミットするのはいいが、一方で「やおい」的妄想が完全に等閑視されている、ということになる。いうまでもなく、90年代新本格ブームを支えた一勢力として、ホームズ‐ワトスンの関係性を、そのまま性的なそれに「妄想」した“女子”たちがいる。詳述はしないけれども、探偵小説的諸要素のガジェット化を促進させたのは、彼女たちかもしれない。そして、このガジェット化が、「脱格系」の成立に寄与しているのならば、「やおい」的“読み”の暴力と、「セカイ系」的空虚さの、テクスト上の拮抗関係こそ、暴かれなくてはならないのではないだろうか。