歌野晶午『春から夏、やがて冬』(文藝春秋)レビュー

春から夏、やがて冬

春から夏、やがて冬



 贈与と救済と暴力の寓話。“贈与”は、基本的には“救済”につながるものとして肯定されるべきことだろう。だが、“贈与”それ自体が、根本的な欠落性を孕んでいる場合、“贈与”は暴力に転化されうる。たとえば、ネグレクト被害に遭っている児童の家に行って札束を手渡す、という状況を考えてみればいい(本作にこのシチュエーションはない、念のため)。“贈与”が“救済”に至るには、まだ何らかの行動的、方法的付与が必要である。このコストを厭うならば、その“贈与”が“救済”として受容受益されるかどうかは、蓋然性の領域の問題になる。このギャンブルの賭け金は、己の善性ということになるだろう。――作者は、“他者”という不可視の領域を主題として扱った『世界の終わり、あるいは始まり』という名作を物しているが、本作の主題性はこの延長線上に明らかにあり、不可視なものとしての“他者”への“贈与”、その善性に亀裂が走る必然性、不能の“救済”をめぐる悲喜劇である。多くは言わないけれども、259ページのくだりは、上の文脈において、この物語のリドルストーリー性が担保される箇所である。