三浦展『「自由な時代」の「不安な自分」 消費社会の脱神話化』(晶文社)レビュー

「自由な時代」の「不安な自分」―消費社会の脱神話化

「自由な時代」の「不安な自分」―消費社会の脱神話化

 
 いわずもがなのベストセラー『下流社会』で、その統計データの解釈が恣意的だと難じられているのは周知の通りだけれども(俺の周囲に「自民党、フジテレビ、スポーツ観戦が好き」という団塊ジュニアはあんまりいない。個々の政治家名や番組・ソフトを挙げるのはいても)、それよりも、「かまやつ女系」「ミリオネーゼ系」「SPA系」(!)などというのに表される、ある社会集団(階層)を、むりやり一定の“像”に結ぼうとする所作、いってみれば「キャラクター化」する手付きが無茶苦茶可笑しかった(本書だけに限りませんが)。「キャラクター小説」ならぬ「キャラクター社会学」。“ライトノベル”のひそみに倣い“ライトソシオロジー”と呼んでみましょうか。ラノベじゃなくて、ラソシ。って音階じゃないんだから。
 サンボマスターの『サンボマスターは君に語りかける』に収録されている「欲望ロック」という曲で、「欲望をくれよ!」と“唄とギター”の山口隆が絶叫するのが印象的だった。――著者は、現代の若者の間の無視できぬ傾向性として、「欲望を欲望するという感覚が消失しつつある」ことを指摘する。要はメディアに年がら年中“欲望”を喚起され続けているせいで、この“欲望”に反射的に対応する一方、何が自分のほんとうの“欲望”なのか分からなくなる、この結果、“欲望”(もしくは“欲求”)を、「突然自分に襲いかかってくるかもしれない」ものとして感ずるようになっているのではないか、と問う。“欲望”が“自分”に歯向かってくる。そのため、“自分”が分からなくなってくる。かくして、若年層で“自分”が嫌いであるという意識が強まる。――ここのところの分析は実に鮮やか。著者の(80年代日本的=消費社会的)ポストモダニズム人間観は、「本当の全面的な自分らしさ」を断念する代わりに、「部分的な自分らしさ」を叶えよう、そうやって「部分的な自分らしさ」を「重ねて描きつづけ、たとえそれら同士が相互に矛盾しても、その重層的な仮面の姿を本当の自分とみなすしかない」というもの。ドゥルーズの「器官なき身体」の倫理とはえらい違いである。で、著者はこれが、「動物化」した様相を、“若者”たちは厭っていると述べている。能動的か受動的か、あるいは“おたく”か“若者”かで、東浩紀動物化するポストモダン』が提示する世界観はちょうど反転するのだろう。
 刮目すべき松任谷由実論「ユーミンアメリカ」以降、ニューヨーク万博、50〜60年代におけるアメリカの消費社会と、即ち“アメリカニズム”の文化戦略の様相を探っていくが、これは本当に勉強になりました。「そもそもニューディール政策そのものが、消費の単位として家族を重視したものであった。(中略)農業や工業の生産力の上昇に見合うほど家計消費が伸びていないことにある、だから家族市場を拡大することが景気浮揚につながると確信していた」ということは、とりもなおさず、ケインズ経済学と“家族”幻想・「マイホーム主義」が不即不離の関係にあったということでもある。とすればフリードマンマネタリズムの盛り返しが、“家族”主義のゆらぎと相即する、というのは、アナロジーとしては面白いかな。…………「八〇年代渋谷論への疑問」はパルコ内部から都市社会学へ向けての、二十年遅れの反論。八〇年代(型)消費社会論の可能性は、21世紀のおらが村に屹立するショッピングモールにある。「それは田圃の中にある」。「田圃」のなかに現出する「プチ渋谷」。そしてそれは、「殺伐とした埋立地に蜃気楼のように現れた東京ディズニーランドに近い」。…………おいらのとこにもあるでよ、「プチ渋谷」。
 …………にしても。著者の立居振舞いは、八〇年代〜九〇年代における大塚英志と似てきていると思うのは、オレだけ? 巻末に収録された、学生時代に書かれた天皇(制)をめぐる論文をよんで、「心理的地盤」は、両者近いものがあるような気が。