風景論

 2006年上半期本格ベストに、三津田信三『厭魅の如き憑くもの』と森谷明子『七姫幻想』を上位二作として挙げたのは、率直に面白かったためで、決して<巫女>萌えだからではありません。と言っているうちに小森健太朗『魔夢十夜』も出てきて、こりゃいったいどーしたことかと、訝しんでいる状態。先日文庫化された斉藤環戦闘美少女の精神分析』で、ファリック・ガールズの一系譜として「巫女系」が挙げられていたけれども、上記二作における<巫女>は、無論それに当てはまらない。<巫女>が、彼女がコミットする<共同幻想>を「去勢化された他者」と捉えたときに、“ファリック<巫女>”が生成=誕生すると斉藤の文脈ではとりあえず言うことができそうだけれども、『厭魅の如き憑くもの』にしても『七姫幻想』にしても、到底<共同幻想>が「去勢化」されているとはいえないだろう。<共同幻想>は、まさにファルスそのものとして、物語空間内を統べている。
 吉本隆明は『共同幻想論』中の「巫女論」のなかで、「巫女がもっている能力が、共同幻想をじぶんの<性>的な対幻想の対象にできる能力」と述べ、「自己幻想を共同幻想と同化させる」能力を持つシャーマンと峻別している。<対幻想>とは、「男・女のあいだの心」(「対幻想論」)、あるいはそれに類する二者間の関係性のことである。「巫女にとって<性>的な対幻想の基盤である<家>は、(中略)つねに共同幻想の象徴と営む<幻想>の<家>であった。巫女はこのばあい現実には<家>から疎外されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと霧散していったのである」。<対幻想>と<共同幻想>のかかわりについては、「対幻想論」のなかで、<対幻想>と<共同幻想>を同致できる人物は、血縁から疎外されるが(ここにおいて<家族>が発生)、彼は「宗教的な権力を集団全体にふるう存在でもありえたし、集団のある局面だけでふるう存在でもありえた」。<家族>は、<対幻想>が交錯する関係性である。夫婦はもとより、親子も<時間>が導入された<対幻想>であるが、兄弟/姉妹の場合、「はじめから仮構の異性という基盤にたちながら、かえって(あるいはそのために)永続する」<対幻想>を取り結ぶ。「母制論」では、この兄弟/姉妹の<対幻想>だけが、<空間>的な拡大に耐えられる、なんとなれば「自然的な<性>行為をともなわずに、男性または女性としての人間でありうるからである」。ゆえに、(<母系>制社会において)兄弟/姉妹の<対幻想>が、<共同幻想>に同致するまで<空間>的に拡大していった、と。――以上を、さらに重ね合わせれば、<巫女>とは、<共同幻想>と<対幻想>的関係性を取り結ぶことを通じて、兄弟/姉妹の<対幻想>に<対幻想>的にコミットする、いわば高次の<対幻想>を体現する存在ということができる。これを破ることが、<巫女>にとって本質的な禁忌なのだ。
 『七姫幻想』は、“織女”という<巫女>を物語にてシンボライズするとともに、古歌のモチーフを作中に取り入れるというスノビッシュな<趣向>を導入し、さらに物語の時代を上代から近世に架けている野心的構成が光る力作だが、以上の文脈から観ると、さらに、本連作集が緊密に企まれた作品だということが分かる。――「ささがにの泉」で、“使い神”が紡ぐ糸の密室で大王と同衾する衣通姫の悲劇性は、“高次の<対幻想>”たるその存在性に由来する。衣通姫の造型について、<死>を傍観するいささか離人症的な側面と、まさしく恋に身を焦がす情熱的な側面と解離している印象があるが、これは<対幻想>の抽象度のその二重性に拠っている。即ち、<共同幻想>を体現する大王と、ひとりの男としての大王と、である。この後日談である「秋去衣」は、これとは逆の設定、<巫女>が禁忌を破られる側に立つが、これがそのままもうひとつの禁忌を破る奸計となっている。二重の禁忌破りで意図されるのは、実に<共同幻想>をめぐる闘争からの撤退なのだ。――「薫物合」「朝顔斎王」「百子淵」は、<巫女>であることの運命・宿命性を真正面から描いた。このうち、「百子淵」は特にこのテーマを鮮明にしているが、それと同時に、成長小説的達成も目論まれて、本作のなかでは出色。「薫物合」は復讐譚であるが、この矛先が、小共同体の<共同幻想>から大なる<共同幻想>へと向かっている。ここで、<巫女>性というものが、「百子淵」とは逆のベクトルをえがいているという意味で、両者は表裏一体にある。「朝顔斎王」は、<巫女>のアイデンティティをめぐる物語。高次の<対幻想>を体現する<巫女>は、その“高次”性ゆえ、必然的に超越性をも帯びてしまうだろう。いまここにある<共同幻想>と<対幻想>を取り結んでいるという<巫女>の主観と、彼女を受け入れている共同体の当の<共同幻想>が、半必然的に亀裂を起こす。<巫女>は、その<共同幻想>をさらに繰り込まなければならない。未遂の<巫女>は、ある種の止揚の過程に挫折する。が、それでも<巫女>性を帯びてしまうのだ。要は、<共同幻想>のほうから求婚されているのである。椿事は、この事実をめぐって出来する。………「梶葉襲」は、“<時間>が導入された<対幻想>”に対する<対幻想>で、果たして、<巫女>の聖性に到達できるかという問いとして観られる。物語の結論は、俗であるしかない、ということだが、俗に塗れた女に対する苦々しい思いは、産む性そのものが、穀物の収穫に類比されるときに孕む、聖性ゆえだろう。――「糸織草子」に出てくる御所車は、埃をかぶり放置されていた。“織女”は、機織の前から文机に身を移し、言の葉を紡ぎ、物語を織り上げる。終わりなき<対幻想>の輪舞は、<巫女>の聖性を喚起しながら、永劫に続いていくことだろう。
 『共同幻想論』の「巫女論」の前章「巫覡論」では、山田正紀の近作『マヂック・オペラ』でも扱われている芥川龍之介の「<離魂譚>」を端緒に、これと『遠野物語拾遺』におけるそれとを比較して、「離魂体験」におけるその“対象”(=“離魂”の行き先)となる<他者>が、芥川において「<第二の僕>」であったそれが、『遠野物語拾遺』では「村落共同体の共同幻想そのもの」に措定されている、と説く。さらに、このような<離魂譚>が高度になった形態として、吉本は「いづな使い」の民譚をあげているが、これは「離魂体験」の“対象”としての「村落共同体の共同幻想」が、はっきり「狐」と措定されているからである。この「狐」を使う者は、この「共同幻想の象徴にじぶんの幻覚を集中させれば、他の村民たちの心的な伝承の痕跡をもここに集中同化させることができると信じられている」。「共同幻想の象徴」は、言うまでもなく他の動物や、もしくは「<偶人>(人形)」であってもよい。――『厭魅の如き憑くもの』においては、“蛇神憑き”の家筋の娘・紗霧は「憑座」として、祖母の叉霧は<巫女>として、憑き物落としの儀式に臨む。この紗霧に“生霊”が纏わりつくのだが、まさしく<離魂譚>の原基が回帰している設定といえる。…………ここで暴かれるのは、<巫女>がその本義を貫徹しようとして犯した罪、<巫女>の“原罪”とでもいうべきものだ。そしてそれが、「憑座」の“生霊”を現出させてしまう。――これは、“山神様”‐“カカシ様”‐“厭魅”の三者が、<共同幻想>の象徴として互いに混溶しながらも重層的に機能しているのに、実に対応しているのだ。そしてこれが、本作におけるサプライズを演出するのだ。
(今回の文章は、以前にやっていたブログで公開したものを、一部転載しています)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

七姫幻想

七姫幻想

厭魅の如き憑くもの (ミステリー・リーグ)

厭魅の如き憑くもの (ミステリー・リーグ)