「予言」する探偵小説4-Ⅳ

今回の文章も東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 「可能世界を含めたすべての世界のクラス」である「宇宙」。この「宇宙」とは、<発話者>の固有名による直示によって、この「同一性を区画するような境界」を指示されてしまうような存在である。この「宇宙」をめぐる大澤真幸の考察は、『性愛と資本主義』に引き継がれる。――「宇宙」とは、可能世界をすべて含めた存在であるがゆえに、「宇宙」の<外部>は、直接に“言及”できない。「宇宙」を表現する“差異”とは、「存在しない、ということはない」という言明に限られる。要は、「宇宙」は、単一性を有するのだ。誰にとって? 無論、<発話者>にとって、である。大澤は、この「宇宙」の<単一性>のことを、「身体(の絶対)の孤独」と換言する。<身体>とは「体験や行為といった選択性が現成するとき、その選択性が帰属する場所として、不可避に現れざるをえないような存在者」のことであるが、これは当然、「<発話者>(の絶対)の孤独」のことでもある。――さて、それでは、「絶対の孤独」に閉じ込められた<身体>Aと<身体>Bがあったとして、この両者がコミュニケーションをとるにあたっては、どのようなメカニズムが働くか。具体的には、「絶対の孤独」な<身体>たるAの選択が、同じく「絶対の孤独」な<身体>たるBの彼の帰属する「宇宙」にいかように伝達されるか。Bの選択がAの…………ということである。そのためには、Aの選択(メッセージ)がBの帰属する「宇宙」内で意味を有するものとして機能しなくてはならないし、その逆もしかり。自己の選択内容を他の<身体>、即ち他者の「宇宙」内部で有意味になるためには、両者の間で共通(に準拠)する「知識」が必要になるだろう。この「知識」の総体を「コード」と呼び表せる。精確には、Aのメッセージが、コードを通じて、Bの帰属する「宇宙」内において「再現=翻訳」されるのだ。<身体>の「絶対の孤独」が、コミュニケーションにおいて「コード」を要請する。――ところで、「宇宙」は<単一性>を有するのだった。その「宇宙」に帰属している「絶対の孤独」な<身体>において、「両者の間で共通に準拠する」との確度が持たれる「コード」とは、一体どのような内実を持つのだろうか? ある<知識>Xが「コード」として機能するためには、AがXを知っておりBもXを知っている、という階梯だけではダメで、Aが「BがXを知っている」ということを知っている、さらに、Bが「AがXを知っている」ということを知っている、という階梯だけではまだダメで、Aが「Bが『AがXを知っている』ということを知っている」ということを知っている、Bが「Aが『BがXを…………という“知っている”ということに関しての無限階梯化を経なければ、<単一性>を有する「宇宙」内部で、「コード」として機能しないのだ。――これは即ち、Aの「宇宙」においてBの選択が、Bの「宇宙」においてAの選択が、相互的に不可避に有意味を帯びるということで、究極的には、お互いがお互いの<主体性>を対象化しうる<外部>として、機能することになる。具体的には、無限階梯の果てには“Aが「Bが『Aが…………”における、この二つの“Aが…………”という文章は一致することになる(大澤のはこの部分の解説は数式を用いていて、すっきりしている・笑)。ここにおいて、Aは、Bの「宇宙」における内部の要素であるとともに、<外部>、いうなれば他者として現れているのだ。とともに、ここにおいては、二者間の関係性のうち、「コード」という外在的な要素も解体させられているのである。このような状況、即ち「他者が真正なものとして顕現しているような境位においては、自身の選択は、ただこの他者の体験へと方向づけられており、他者の宇宙の内部でのみ意味あるものとして定位されるに至るはずだ」。大澤はこのような関係性を「愛」と呼び、特にこれが性的関係のうちにあるものを、「性愛」と呼ぶべきか、という。
 翻って、『容疑者Xの献身』の石神は、彼の犯行は、上の文脈からいえば、「愛」の範疇には入るのだろう、とりあえずは。このことに多言を要すまい。であるから、問題は、花岡母娘の「体験」、石神によって、別の「宇宙」に閉じ込められた彼女たちの「体験」にある。端的にいえば、石神の犯行は、花岡母娘の「宇宙の内部でのみ意味あるものとして定位され」たのだろうか? 確かに、<名探偵>湯川によって事件の真相が明らかにされたあと、「これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった」という感慨を靖子は抱くのだが、このあと、娘の美里が学校で自裁した報せがもたらされる。靖子と美里の間に存する差異とは、いうまでもなく“富樫”をめぐる認識における<発話者>の場所の差異である。石神が用意した「宇宙」と、<名探偵>湯川が指示した「宇宙」との。そうであるから、靖子が<名探偵>湯川の説明を、もし受けなかったとするならば、美里のような末路を辿ったかもしれない。…………実は、この美里の自裁をどうとらえるかが、『容疑者Xの献身』というテクストの批評における分水嶺ではないか、と思うのだ。――“罪”の意識? しかし、この解釈は整合性をもたない。なんとなれば、靖子=美里は、“富樫”殺しにおいて、同一的な人格性、この行動における<主体>として同一のポジションにいるからだ。なぜ美里は自裁して、靖子は自裁しなかったのか。違う「宇宙」にいたから? しかし、“罪”の意識が倫理的規定によってのみ構成するのだとしたら、「宇宙」の相違など関係ないはずである。――しかし。靖子と美里の間の決定的差異は、それしか起因するものがない以上は、この「宇宙」の相違に求められるしかない。それはつまり、美里は、「“罪”の意識」によって自死を意図したのではない、即ち、「自裁」という表現は過てるものであり、端的に「自死」と呼び留められるものである、ということだ。
 …………ここで、大澤の次の見解が重要な示唆を与えてくれる。大澤は、「性愛に含まれていた他者性を詐取し、独特な形態に改変することで」、「信仰が生まれる」というのだ。大澤の説明するメカニズムは、大雑把に言えば以下の通りである。――「他者」というのは、「自己」とは違う“選択”の帰属点であるがゆえに、「他者」という存在そのものを「自己」が知覚することはできず、ただ、この「他者」の“選択”の痕跡をのみ把捉することができるだけである、本来は。しかし、「他者」が「自己」に対して直面(顕現)している以上、本来の<他者性>は、目の前にいるこの「他者」よりも、さらに隔たった場所へと求められる。そこにいる《他者》が本来の<他者性>を有しているということである。この本来の<他者性>が、「痕跡をのみ把捉することができるだけ」ということを本質とするならば、《他者》とは、「私=自己と同じ現在を共有していないものとして、つまりあらかじめ存在していたものとして定位されている」ような存在だ。つまり、この《他者》とは、「抽象的で虚構的」な存在である。然るに、そもそも「他者」とは「自己」に対する純粋な差異だった。《他者》が「他者」の“差異”であるとしたら、「純粋な差異」の“(純粋な)差異”、即ち、《他者》は同一性を備えることになる。「抽象的で虚構的」な「同一性」という位相において、《他者》には超越性が付与されるだろう。この《他者》の機能性が、恒常化しさらに形象化されるときに、「神」が顕現する。「神」を現象する諸存在から区別された特権的な“実体”として、日常的なコミュニケーションとは弁別されたコミュニケーションを維持する態度を、大澤は「信仰」と措定する。
 …………「孤独」‐「性愛」−「信仰」。大澤によれば、「孤独」と「性愛」は、その必然性において同居しているという。そして、「性愛」から転形したのが「信仰」なのだが、「その転形は、性愛(と孤独)が結果する逆説性を隠蔽するような効果をもたらすように思われる」という。…………それでは、この逆は果たして真なるだろうか。即ち、コミュニケーションにおいて、「性愛(と孤独)が結果する逆説性を隠蔽」することが、「神」を出来させるのだろうか。「性愛」から「信仰」へと転形するのは蓋然的ではある。しかし、「性愛」を隠蔽することを企図したまま、「性愛」というコミュニケーションと同一の行動を取った<主体>がいた場合、この<主体>は、彼の「他者」に対して、一体どのように顕現するのだろうか。
 ――「石神」という、このキャラクターに対する“名付け”が、あまりにも露骨に「神」の「意思」という言明を体現していることに、改めて注意を向けなければならない。

性愛と資本主義

性愛と資本主義