“逆接”の逆説の「民主主義」



大澤真幸の近刊『逆接の民主主義』は、直接的には六年前に刊行された『文明の内なる衝突』の続編と見立ててよいものと思われる。『文明の内なる衝突』の結論は「赦し」だったが、『逆接の民主主義』の結論は「愛」である。この両者の差異は、<他者>の範囲の拡張の度合に依っている。前者の「赦し」は、「絶対に赦しえないことへの、赦すことが不可能なことへの赦し」とデリダの発言を引いて意味づけており、後者の「愛」は「不定の他者への、<無としての他者>への志向」の公共圏への接続が目論まれているが、要するに、<他者>の抽象度がワンランク上がっている。大澤によってなされた数々の提案は、おそらくラディカル度が増していくにつれて、実践の可能性に留保がつけられるものであると思うが、最大の困難は、「未だ生まれざる他者の要求を、妥協することなく、社会の全体性を代表する普遍的な意思と見なすこと」において、「未だ生まれざる他者」の「要求」を、いかなる仕方で措定するのか、ということだろう。これは、ある種のパラドックスであるが、たとえば前世紀に崩壊した二つの帝国主義は、「未だ生まれざる他者」の「要求」を、その政治的思考の範囲内で措定していたかもしれないのだ。このことは、<他者>という概念の限界を示唆しているとも思われる。「排除された他者」において、「排除」されたものが、した側に“回帰”してくるならば、それは<外部>からの衝撃という意味合いを媒介に、その<他者>は極めてリアリティのあるものになるはずだ。が、「未だ生まれざる」ものたちは、果たして「排除」した/されたものと同等と扱えることができるだろうか。――貧困国もしくは被搾取国の民衆に対する徹底した「贈与」が、テロリストたちを孤立させるのは、間違いない。しかし、「未だ生まれざる」ものたちは、このような「贈与」の宛先になるのかどうか。大澤の論旨では、「贈与」には直接性――これは字義どおり直に接する、即ちある種の対面性が込められているのだが、そうなると、齟齬はあからさまになってしまう。「贈与」のラディカリズムを問うのではなく、<他者>概念のそれを追求するのは、“民主主義”の実践の探究においては、迂回路なき寄り道であるような気がする。…………いずれにせよ、『文明の内なる衝突』の冒頭で示された「社会哲学の失効」という命題は、今にいたるも、説得的なアンチが突き付けられた気配はない。であるかぎり、テロリズムは社会哲学のまさしく<外部>として、実践的な欲望を誘発し続けるものとして、定位されることになるだろう。これは、テロリズムが特定のイデオロギーに支えられることから、むしろ諸イデオロギーの<外部>として位置づけられることを意味する。「イスラーム」の“物語”は、このような(特殊西洋的価値観に対抗する)テロリストに言挙げされる限りにおいて(そして、さらにこれが「社会哲学」者たちに言挙げされることにおいて)、端的に空虚である。“物語”は、“社会哲学”の露出した<外部>を隠蔽して、かつ“社会哲学”(の限界)を慰撫するものにほかならない。