「予言」する探偵小説〜間奏

 批評というテクストが、先行するテクストを俎上にのせている以上、その批評を論及する際には、必然的にそれが取り上げたテクストにも言及せざるをえない。さらに、そのような批評にも論及するとしたら――と、“批評”という言説は、さながらテクストでできたマトリョーシカのごとき様相を示し、その核となるテクストは、様々な意味を孕みながら、回送されることになる。…………例えば、江藤淳『成熟と喪失』について論及するということは、必然的に小島信夫抱擁家族』にも当該批評において言及することになる、というかそうせざるを得ない。さらに、加藤典洋アメリカの影』は、江藤淳論であるから、『成熟と喪失』ひいては『抱擁家族』の再批評を扱う展開になる。『アメリカの影』では、田中康夫『なんとなく、クリスタル』にたいする江藤の肯定的評価を、論の導入部の問題設定としているが、『成熟と喪失』『アメリカの影』に言及する『戦後の思想空間』においては、『抱擁家族』『なんとなく、クリスタル』にも“批評”は及ぶ。――大澤は、『抱擁家族』においては江藤の見解を、『なんとなく、クリスタル』においては加藤の見解を踏襲して、この二つのテクストを貫くコンテクストを読み解く。それは即ち、「簡単に言えば、江藤がアメリカが重要だということを発見したというのは、アメリカへの信頼が危うくなっているからなんですね」。『抱擁家族』における主人公・三輪俊介の妻とアメリカ兵の不倫カップルと、『なんクリ』におけるカップルは、象徴的な位相において、「男性的アメリカと女性的日本」の政治的構造を表している。『抱擁家族』のクライマックスで、三輪夫妻と米兵は話し合いの場をもつのだが、そこにおいて、妻が、この姦通において「私は私で責任を感じるが、あなたは責任をかんじないか」と米兵に問う。彼は、「僕は自分の両親と、国家に対して責任をかんじているだけなんだ」と返す。その後、米兵と別れる際に、三輪は「まったく思いがけ」ずに、「ゴウ・バック・ホーム・ヤンキー」と吐き捨ててしまう。大澤は、「とりあえずアメリカと日本の間の、そのときまでの一番オーソドックスな関係を起点に置きながら、そこから何か離れていこうとする、そういう指向」が、『抱擁家族』に表現されているとするが、その十五年後の『なんとなく、クリスタル』においては、「アメリカなしにはやっていけない」(加藤)という隠喩として、「私」と「淳一」の関係性は機能する。「私は、こわかった。淳一が離れていってしまうのが」。…………大澤は仮説として、「超越的他者というのは、具体的にはアメリカとの関係の中でリアリティを確保していた可能性が高い」という見解を述べているが、「アメリカ」との関係性が不安定として感じられるということは、超越的他者の場所から「アメリカ」が降りる、というより、実は「日本」が「アメリカという超越的な審級、超越的な他者の場所へ近接」していることを含意している。このダイナミズムが帰結するのは、「予言する超越的な他者の位置が空虚」になることであるのは、先に引用したとおり。
 しかし、ここで、大澤が論旨の展開上、「細部のデリケートな部分」として措いておいた、『抱擁家族』の江藤の“読み”における加藤の異議申し立てを確認しておこう。…………江藤は、「自分の両親と、国家に対して責任をかんじているだけ」という「論理に対して俊介夫婦がたじろぐのは、彼らが「恥ずかしい」父のイメイジを極力消去しようとする近代日本の文化のなかで生きて来たからにほかならない」とする。「父のイメイジ」=「国家」の立ち上げ、即ち社会的「成熟」は、「喪失」=「“母”の崩壊」を賭金にして図られたものだが、これに加藤は、「しかし小島は、江藤が“母”の崩壊として論理の前提としているところのものを所与とはみないのである」と異議をはさむ。「日本」人は「高度成長」を経て、“変質”した。「この小説は、(中略)この“変質”の結果を一人引き受ける、そうした孤独な個人の劇をこそ描いている」。“変質”とは、「戦後の旧弊な生活態度、生活様式から脱出」して、「さらに自然との「恥ずかしい」共存から離陸」したということで、別の言い方をすれば、「それまでの「カッコ悪い」戦後よりも豊かで明るく、近代的な――クリスタルな――「アメリカ」を選ぶこと」でもある。三輪俊介の吐き捨てる「ゴウ・バック・ホーム・ヤンキー」には、「みじめなこっけいさ」があると江藤は指摘する。このように言われた米兵は、「どうせ僕はあと一月で帰るよ」と受け流すのだが、江藤はこの台詞を「米軍撤退」の暗示としてとらえ、この「米軍撤退などで少しも片付かないほど根深い欠落の意識」が、俊介を動揺させ、たじろがせたと剔抉する。――これに対して、加藤は、「ゴウ・バック・ホーム・ヤンキー」というコトバが、「どのような後ろ盾ももたず、つまり、国家も、ナショナリズムも、日本人としての誇り(?)も、また姦通の相手の夫としての権威も、何もかも剥奪された、全くよるべない個人」という状況下で発せられたことに、注意を喚起させる。「どうせ僕はあと一月で帰るよ」との台詞を残して米兵が去っていくと、俊介は妻に「傘をさしてやり」、「反対の方向」へと歩み出す。加藤は、俊介の妻は、「親米愛国の「開かれた」ナショナリズムの方に、経済高度成長と共に一気に「向上」「離陸」していった「国民大衆」」のアナロジーであるとして、そこでこのシーンが象徴するところのものを、「そのようには「向上」できず「離陸」できない者の、怨嗟の色とは裏腹の、その変質と裏切り(姦通)を甘受し、また自ら引き受けようとする独特の色合いがあらわれて」いる、とする。――三輪俊介というキャラクターが表現するのは、いうなれば、その自らの“権威”うちに亀裂を入れられた、あるいはそれが宙吊りにさせられた、“父”のイメージだろう。そして、この“父”が、『なんとなく、クリスタル』においては、不在である。
 それでは、その“父”はどこへいったか。――周知のように、『抱擁家族』の後日談である、『うるわしき日々』という小説が1997年に刊行されているが、今まで引用してきた、『戦後の思想空間』における<記憶>の不可能性という問題、「予言する超越的な他者」が「空虚」であるという状況を説明するために、大澤が引いているのが、小島信夫の『うるわしき日々』である。『抱擁家族』即ち「精神的にアメリカから独立した家族」の帰趨を描いているのがこの作品であるという。三輪俊介は『抱擁家族』のときの妻とは死別していて、再婚しているのだけれども、この後妻が老化のために<記憶>が維持できなくなっている。それだけならまだしも、彼の息子も、重度のアルコール中毒のせいで、<記憶>に困難をきたしているのだ。<記憶>の不可能性というテーマが前面化しているわけである。三輪俊介の現在の職業は「小説家」である。、大澤は、アンダーソンの<小説>というスタイルにたいする見解を紹介して、「小説家というのは、こういう具合に、登場人物に対して超越的な他者として生を観察し、記録する者です」とするのだが、『うるわしき日々』における三輪の妻が、“記憶喪失”になるきっかけが、「彼女はもう半分しか彼の話を聞いていないし、そのうち聞くことさえやめたらしかった」という、唐突な、夫に対する妻の無関心である。そして、これが子供にも及んでいる。――「予言する超越的な他者」の不在という事態は、現実的な“家族”の像のうちに投射されれば、それは、“父”の否認ということになるだろうか。換言すれば、宙吊りにされる“父”から、否認される“父”へ、ということである。

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)



うるわしき日々 (講談社文芸文庫)

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成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

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