巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社)レビュー

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で



 “蜘蛛の巣”というのは、バルトの『テクストの快楽』の中で、(<作者>という)<主体>が解体する場面で出てくる比喩。「自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身溶けていく蜘蛛のように」。テクストではなく、“論理”。この“論理”というのは、ミステリーに限らず、あらゆる<物語>を駆動させる原動力である。<作者>が<作品>において死ぬのは、テクストが(<読者>という他者において)複数の“意味”を生成させるからだが、さて、<物語>の<作者>は、自ら張り巡らした“論理”の蜘蛛の巣に、いかように囚われ、溶解していくのか? この問いは、「あとがき」で再度主題化される。…………この「時評」において目論まれたのは、同時期に刊行された複数の作品を「横断的に眺める」ことによって、その<作者>たちをも含めた、「私たちの思考を知らず知らずのうちに規定する漠然とした世界イメージの共有が見出されるのではないかと思ったからだ」。これを、テクスト論にまた捉え返してみると、インターテクスチュアルなアプローチによって、ジェノ・テクストの位相を探っていく、その表明だろう。現に、第一回で採りあげられるのは、京極夏彦花村萬月だ。その意気や昂し。
 個々の論題から、気になったものを挙げるとするなら、やはり島田荘司に関する一連の言及で、島田が紡ぐテクストの現在的な意味性ということにおいて、著者が一番深いところを抉り出している、と感じる。――あと、第二十二回の「ふるさと」ということについて、「むごたらしく救いのない、世界から突き放される」経験であるという、坂口安吾の「文学のふるさと」からの引用があるが、この安吾の「ふるさと」に、「世界戦争」の文脈を読み込むのが西谷修の『戦争論』だ。西谷は、「ふるさと」は「失われたものとして生まれた」という。「「ふるさと」とはそこを自分が離脱して失ったとき初めて生まれる言葉なのだから」。「ふるさと」は二重性を被っている、と西谷は指摘する。即ち、「「私」の内面の「ふるさと」と客観的現実としての「ふるさと」」。であるがゆえに、「ふるさと」それ自体、「<現実のふるさと>は存在しない」。ところが、主観と客観の結び目たる「私」が「軋みと化すとき」、「ふるさと」それ自体が、荒々しく回帰する。「存在しない」ものが、存在を主張するということ、それが<虚構>だ。要するに、<虚構>は、「私」という存在が崩壊して、誕生する。…………著者は、「推理小説に浸りきって過ごしたきた年月をふりかってみて、いつも自分の中のどこか底の方で、「書いちゃったよーん」「だって思いついたんだもーん」という間延びした声が、ふるさとからのメッセージのように響き続けていた」という。著者はこの「間延びした声」のことを、「非情な声」と捉え返すが、これは適切である。著者が、『六とん2』、『モーダルな事象』のテクストに読み取る、「脱力」という位相。これは、「主観と客観の結び目たる「私」」が、ほどけるということだ。「なぜそんなトリックを思いついたのかといわれても、たいていは、思いついちゃったんだから仕方がないというほかない」。探偵小説の<作者>にとって、“トリック”は自らの向こう側からやってくる。ということは、探偵小説において、その<作者>にとって、“トリック”こそ「ふるさと」ということにならないか。――西谷は、安吾が「夜の空襲はすばらしい」「そこには郷愁があった」と続けるのを引いて、「すべてを夜の炎のなかに燃やす「豪奢」なこの<戦争>のうちにこそ<ふるさと>は回帰している」と言い留める。とすると、安吾は、「世界戦争」を通過して、“トリック”を召喚させる体質を獲得した――否、それこそが、「世界戦争」を通過した証左なのだろう。ここで、笠井潔の議論と合流する。が、もうひとつ、西谷は、<ふるさと>をラカンの「現実界」と対応させているが、すると、「悪夢は現実、現実は悪夢」、「悪夢の構築力」を示威する近年の島田テクストに対する、著者の問題意識にも、それは還流してくるのだ。