荒谷大輔『西田幾多郎――歴史の論理学』(講談社)レビュー

西田幾多郎 ―歴史の論理学 (再発見 日本の哲学)

西田幾多郎 ―歴史の論理学 (再発見 日本の哲学)



 西田哲学の主要概念である「絶対矛盾的自己同一」を、あえて「謎」として括り出し、西田の「テクストが持ちうる意味を、他者へと開いていくことが目指される」。――それでは、「絶対矛盾的自己同一」とは、どういう「謎」なのか。それは、「語られる自己」と「語る自己」の間にある「本性的な差異」が、むしろそれゆえに、その「同一」が、積極的に主張される、という事態を指す。著者の問題意識は、この「絶対矛盾的自己同一」の論理が孕む「全体」への志向性に、その照準が合わされている。即ち、この論理が証しだてる「無としての実在の真理」を、「単に「語られたもの」の次元において「根源的なもの」と見なすことが、端的な全体化を招くことになるのだ」。…………「無としての実在の真理」とは、「「何」かはわからないままに「何」かが意味されようとする」次元を示す。この状態から「自覚」という基点でもって、「その存在を規定する種の「かたち」が浮かび上がってくる」。要するに、「自己」というものが新たに限定し直されるということなのだが、この「自己」が「真の意味」と解され、この「自己」を超え出る契機が、「語られたもの」の次元において、放擲される危険性を、著者は憂いている。事実、高山岩男の『世界史の哲学』は、西田のロジックに相即し、最後に、「絶対矛盾的自己同一」の哲学が要請する(ということは、西田が要請する)「私」=「自己」に対する「疑い」が放擲される。「主体的行動性」が賞揚されることになるのだ。…………西田のテクストを「他者」のテクスト、ロジックへと開いていくことによって、西田のロジックの実相を明らかにすることを著者は実践したが、それゆえ、本書が「物語」=「語られたこと」で終わることを、著者は峻拒する。「語ること」の次元を確保すること、それは哲学の倫理性にかかわる問題でもあるのだろう。