「予言」する探偵小説4-Ⅶ

今回の文章も東野圭吾『容疑者Xの献身』の内容に触れています

 「アンチ・フェミニスト」を自称する内田樹の、“フェミニズム批評”批評ともいうべき『女は何を欲望するか?』のなかで、ショシャナ・フェルマン『女が読むとき 女が書くとき』が、それが示した命題が、女性だけでなく男性にも、「彼女の洞見が「すべての人間」について妥当する」とある。フェルマンの示した命題とは何か。「いまだ、女として、厳密な意味で自伝と呼べるものを書いた女は私たちの中にひとりとしていない」ということである。…………フェミニズム的な見地から言えば、<言語>は“性化”されており、それはまた、それを使用する社会のジェンダー規範を反映している以上、男性優位の社会(ということは、すべての<社会>)で用いられる<言語>には、セクシズムの刻印がある。ボーヴォワールの後に現れたリュス・イリガライは、「主体はつねに男性形で書かれてきた」とはっきりと言う。そして、「女性は主語を「あなた」(ほとんどの場合男性、まれに女性)に譲る」。ゆえに、<言語>に女性的な“性化”を施すことが喫緊の課題となるが、これは必然的に「ロゴス中心主義」の「女性バージョン」となるほかない危険性を孕んでいる、というのが内田の批判だ。――そこで、フェルマンの指摘が、重要性を帯びてくる。フェルマンは、「女たちは自分自身を対象として眺め、「他者」として位置づけられるべく訓育され、自分自身から疎外されている。だから、私たちが持つ物語は、私たちにとって定義上、自己‐現前的なものではありえない」と言っている。内田は、このフェルマンの命題を、「女たち」だけでなく、「彼女の洞見が「すべての人間」について妥当する」と述べるが、妥当だろう。即ち、「私は〜〜した」と言明する<私>と、この<私>に言及されている“私”は、お互いがお互いにとって、<他者>である、ということだ。つまり、<私>は“私”についての物語を語るのであり、この構造からは逃れられない。<私>は<私>について語ることはできないのである。<私>は“私”についてしか語れない。だから、<私>が「私は…………」と語るとき、<私>は、<私>について、十全に語れていないのではないかという、ある種の「満たされなさ」を感じる。これをラカンは「根源的疎外」と呼んだ。「根源的疎外ゆえに、彼は「私」を「他者のようなもの」として作り上げ、それはまたつねに「他者によって」彼から奪い去られる」とラカンはいう。そして、そうであるから、<私>が“私”についての物語を語る、語り続けることで、「私」は<私>のなかで存在感を増していくのだ。…………「男女を問わず、誰かが厳密な意味での「自伝」を書くことに成功した事例を私は知らない」と内田は言うが、私も知らない。
 さて、それでは、「自伝」はどうすれば/どのように書かれるのか? フェルマンは、(女の)「自伝」は、「トラウマ」の物語となる他ない、と言う。「すべての女性的存在者が事実上トラウマを受けた存在である以上、女の自伝は告白となることができない。それは女が生き延びたことの証言となるほかないのである」。――トラウマ、「外傷」とは、<私>が経験したことでありながら、<私>がそれの“主語”となるように表出できない、そんな経験のことである。換言すれば、決して思い出すことの出来ない<記憶>のことだ。このトラウマが癒されるのは、どういう手段によってか。「「自らの口では語ることが出来ない」患者のために、「他人の物語」を提供すること」、これである。フロイトは、女性のヒステリー患者に、幼児期に父親からの性的な攻撃=「誘惑」されていたという“物語”を与え、それで彼女たちの症状は寛解したのだが、後に、フロイトの元に訪れるその患者らが、みな口々に同様の“物語”を語るのに面して、フロイトこの“物語”が真実ではないと悟らざるを得なかった。つまり、「偽りの記憶」たる“物語”によって、トラウマが癒された。「偽りの記憶」即ち「他人の物語」で、である。これは、フェルマンの言うとおり、「人々は彼女たちの物語を(彼女たちが知ることもできず、語ることもできない物語を)、他者の物語を通じて語る」という事態だ。…………さて、それでは、「自伝」はどうすれば/どのように書かれるのか? 「私は私の物語を書くことはできない(私は私自身の自伝を所有していないからだ)。だが、私は「他者」のうちで/「他者」を経由してならそれを読むことができる」とフェルマンは述べる。
 …………だから、私たちは、改めて問わなければならない。なぜ、<名探偵>湯川の“推理”は“想像”なのか? ――それは、<被害者>たる花岡母娘の、彼女たちの「自伝」を、<名探偵>湯川が「他者」となり、靖子に提供したからだ。<犯人>石神が<被害者>たる花岡母娘に用意したのこそ「偽りの<記憶>」で、<名探偵>湯川が「他者」となって語った“物語”こそ真実だったが。否、そんなことは関係なく、花岡母娘をめぐる不条理な状況、思い出せなくなりつつある<記憶>が、<名探偵>湯川による“物語”によって、彼女たちの「自伝」として定位された、そのことが強調されるべきだろう。――そもそも、なぜ<名探偵>湯川が、彼女たちの「自伝」の経由先を担うことができたのか。いうまでもなく、<犯人>石神の用意した「自己完結的な謎解きゲーム空間」の<外部>にいたからだ。この空間の内部にいたのは、草薙刑事をはじめとする警察である。警察こそ、<犯人>石神の対手なのだ。しかし、この「警察VS<犯人>石神」の闘争関係は、“完全犯罪”の要諦が「自己完結的な謎解きゲーム空間」の枠組みそれ自体である以上、実は「警察=<犯人>石神」という共犯関係に変容してしまうのである。『容疑者Xの献身』のテクストをつぶさにみればわかるように、<名探偵>湯川と“闘争”しているように感ぜられるのは、<犯人>石神よりも、明らかに草薙刑事のほうだ。<名探偵>湯川の行動の真意を知るべく、聞き込みをしたり尾行までもやっているのだから。――そして、この対立は最後まで持ち越される。テクストの表象では、<名探偵>湯川は<犯人>石神との友情を優先させたということになっているが、「警察=<犯人>石神」を「ロゴス」支配が貫徹されている領域と措定するならば、花岡母娘の存在している領域はこの反措定、さらに<名探偵>湯川が彼女たちの「自伝」の経由先となっているのならば、この「花岡母娘=<名探偵>湯川」の表するのは、「ロゴス」支配のまさしく<外部>、物語上の構図として、根本的に交わらないのだ。
 ――ところで、<名探偵>湯川という「他者」に与えられた“物語”によって、<記憶>の“回復”、「自伝」が定位された靖子は、先にも述べたように、<犯人>石神への“愛”を抱くのが、自然な流れだろう。…………しかし。靖子には、実に、もうひとたび、「「他者」のうちで/「他者」を経由して」、「自伝」が回帰してくるのだ。もうひとりの「他者」とは、娘の美里、語られる“物語”とは、彼女の自殺未遂に表象されるものである。
(フェルマン以下のテクストの引用は、すべて内田前掲書からのものです)

女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか?