森達也『世界を信じるためのメソッド』(理論社)レビュー



 硬軟取り混ぜてと言うにしても、執筆者にしても個々の内容にしてもあまりにも幅の広いラインナップである「よりみちパン!セ」シリーズ。このたび創刊された朝日新書の第一弾に芸人が混じっていたのは、実はこのシリーズの影響ではないかと疑っている。まあ、幻冬舎新書のラインナップには負けてましたけれども。…………と、そんなことはともかく、先日の『わしズム』の座談会で、自ら「左翼」と名乗った著者の近刊。とりあえず『東京番外地』よりこっちを。――んでも、いまどき「左翼」なんて意気軒昂に宣明できるわけでもないワケで、だからアイロニカルな自己定立ではあるんだけれども、アイロニーは「右翼」に先有されているからなあ。まあ悲愴感を漂わせてくれても困りますが。――いずれにせよ、「メディア」に内在する困難は「メディア」で乗り越えるしかない、という著者のメッセージには率直に共感する。んだけれども、なんというか、もうちょっと思考の切先を延ばして欲しいなあ、と。例えば、「メディア」の原義について、著者は「媒体」という辞書的意味を示すに留めるんだけれども、「メディア」研究者の佐藤卓己が指摘するように、「メディア」の単数形である「ミディウム」というコトバが、「広告」関連の業界用語として、第一次大戦後の消費社会勃興時のアメリカで、人口に膾炙したという事実がある。即ち、当時においては新聞、雑誌、ラジオなどの「広告」媒体のみが「メディア」と認識され、単なる伝達媒体である手紙、電話、写真、書籍等は「メディア」と見なされなかった(佐藤『メディア社会』より)。つまりは、「メディア」の本義としては、「広告」ということは<資本>の運動をトレースすることにあるといえるのではないか。――「メディア」が<世界>を切り取る機能を有しているのだとしたら、それは<欲望>が<世界>を、それ自身が心地よいように加工しているのである。問題はこの<欲望>の主体が、<情報>の発信者にあるのか、その受信者=消費者にあるのか、これを両者の共犯関係といってしまうのはたやすいが、「メディア」がカタストロフィに突き進むのを阻止せんとするのならば、発信者か受信者か、どちらかで「沈黙の螺旋」を断ち切らなくてはならないだろう。ここのところの著者の、率直に抵抗の困難さを伝える姿勢は、誠実なものである。…………なぜ、「メディア」が、水や空気と同じように無くてはならないものなのか。それは、まさしく<欲望>そのものだからだ。それと同時に私たちの<欲望>のありか、その形象を告げ知らせる。