高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)レビュー

ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独



 
 文豪タカハシさんによるモノローグとしてのニッポンの近代文学百年史。――さて、あなたなら以上のセンテンスのどこに読点をうちますか? 「モノローグとしての」という文節の前か後か。…………本書の後段に、ベネディクト・アンダーソンナショナリズムをめぐる一連の議論が紹介・引用されている。“近代小説”はネーションの成立に全面的に奉仕してきた。が、このネーションは、二十世紀を通過して、「治療不可能なほど傷ついた」。「だとするなら、それらと、密接不可分な関係を持つ、近代小説もまた、立ち直ることができないほど痛めつけられたに違いない」。――ネーションの一体なにが毀損されたのか。それは、信ずるに値する「善性」である。であるから、「後期ナショナリズム」の時代には、この「ネーション(国民)の善性」の(その「信」の)回復が、喫緊の課題になってくる。「つまり、我々には希望があるという、根拠のない確信だ」。この「確信」を支えているのが、“未来”と“過去”の<国民>、未だ生まれざる者たちと、そして「死者」である。アンダーソンの議論をもう少し浚えば、「後期ナショナリズム」は「<国のために死んだ>」者たちを、「歴史的に<正しかった>のか<誤っていた>のかという問いから完全に切り離」して「彼らの道徳上の帳簿を清算」することによって、無垢なる存在へと押し上げるが、このことは、十九世紀末マックス・ヴェーバーが行った教授就任講演に見られるように、未だ生まれざる“未来”の<国民>に対する「責務」を負うことで、(講演者の属する)ネーションの「善性」を担保する機制と、時系列的に“過去”に属する<国民>をイノセントな存在へと仮構することにおいて、同型なのだ。――これは、タカハシさんが、これまで論じてきた「ニッポンの小説」が、「死者の代弁」をしようとしてきた」ということの時代的背景を、裏付ける知見である。そこで、タカハシさんは、「小説(文学)」は“ネーション”と運命をともにすべきか、と問いかけざるを得ない。彼の答えは、無論NOだ。…………しかし。「いまもっとも有名な、「ニッポン近代文学」の墓堀り人夫の役回りをするかもしれない、批評家」こと柄谷行人が『近代文学の終り』で述べたように、二十一世紀の現在、“ネーション”は「小説(文学)」に見切りをつけ、その国民統合化の機能を、専ら映画やテレビなどの映像表現に頼っている。タカハシさんも、「文学」とは、“言葉”を介して「遠くにある異なったものを結びつける、あるやり方」と定義づけたうえで、これと同等の機能を「映像」に認めている。それどころか、「映像」は「あまりにも直接的である」。「直接的である」ということは、効率的であるということだ。柄谷の議論はまた別のバイアスを辿るが、国民統合化におけるエコノミーの論理は、“ネーション”創生としての“近代小説”という運動の衰退の見過ごせざる素因であるだろう。要するに、「死者の代弁」は「映像」にもできるわけである――より効率的に。そうであるから、むしろ“ネーション”に見捨てられた存在として、「小説(文学)」は捉え直されるべきではないだろうか。…………タカハシさんは、「現代詩作家」の荒川洋治の小説時評『文芸時評という感想』、吉本隆明詩学叙説』を経由して、いかなる“無意味”に囲まれても<意味>に留まり続ける「ニッポンの小説」の現在形に思いをめぐらす。「(ニッポンの)小説」という<意味>に――「だが、小説は、危機の果てに、小説以外のものにたどり着くべきなのだろうか。/いや、そんなものは小説ではない、と断言することは、誰にもできないのである」。“小説”の危機、それは即ち“言語”の危機のことでもある。「言語の危機とは、言語の構造性の露出です」。つまり、そこから<意味>が剥離する事態だ。二葉亭四迷はそれに直面した。この露出した「言語の構造性」に見出されるのは「何か間違ったもの」、「真実の事は書ける筈がないよ。(中略)それを口にし文にする時にはどうしても間違つて来る」と四迷に呟かせた「何か」だ。タカハシさんは内田樹の議論を援用して、「何か間違ったもの」を「死者」が告げ知らせると論ずる。何が間違っていたか? それは、「死者の代弁」という行為そのもの、「死者」が「生者」の“言葉”を喋ることである。「存在論の語法」そのものである。…………タカハシさんは、「死者の代弁」性を斥けた文章、「死者」そのものを体現するような“小説”をいくつか紹介するが、しかしそれが「死者」自身の“言葉”であると了解された時点で、つまり「死者」自身とコミュニケートできたと感知された時点で、あの「死者の代弁」性が迫り出してくると覚知されないだろうか? コミュニケーションの困難さについて、タカハシさんほどの深度をもって自覚しているひとはいないだろう。“他者”の<他者>性に無自覚な「ニッポンの小説」に出会うたびに、あの気の抜けた音は、タカハシさんに憑依するのだろうか。