内田樹『街場の中国論』(ミシマ社)レビュー

街場の中国論

街場の中国論



 
ここでいう「中国」とは、いわゆる中華思想華夷秩序の謂いである。サブタイトルは、「中華思想精神分析」とでもしたいところ。中華思想華夷秩序を剔抉することは、「夷」たるわが国日本の政治パフォーマンスの宿命性を論じることでもある。ということは、戦後においての日米関係も、アメリカを「王」即ち「中華」とする、属国ならぬ「周縁」のポジションを日本はキープしていた、ことになる(この場合、日本は「西戎」ということになりますが)。「だから、日本はアメリカと中国という二つの「中華」にはさまれて、今どうしていいか、わからなくなってきている」。…………というわけで、相変わらず知的刺激を与えてくれる筆運びにシビレるわけですよ。「中華思想」というものを、ウェストファリア体制=「国民国家」のプロトタイプ、即ち、原「ナショナリズム」の思想で鑢にかける(いや、この逆かな、何せ三千年vs三百年のスパンの違いだから)。近代的な産物である「国境」という概念の有無が、絶対的な差異だ。この国際法秩序に対する認識の彼我の差につけこまれるかたちで、当時の清は、近代日本のアジアにおける国盗りゲームの餌食になってしまう*1――これより前、アヘン戦争敗北の時点で、「華夷秩序」は崩壊していた。以後、中国は、まさしく戦争と革命の“二十世紀”を地でいくことになる。…………周恩来は、「中国人民」と「日本人民」はともに「日本軍国主義」の被害者である、という紛う方なきフィクションでもって、日中共同声明において、戦争損害賠償請求権を放棄した。この日中共同声明をめぐる当時のポリティクスに対する著者の推測は、一読に値するものだけれども、「日本人民」と「日本軍国主義」の切断のロジックが、江沢民の「反日愛国教育」における政治的リソースになった、という見解は、ほぼ正解であるように思われる。――専門家の立場からは、いろいろと反論があろうが、本書の随所に見られる著者独特の逆説も冴えて、知的興奮を充分与えてくれることうけあい。最終章にあたる「第10講」では、「人類館事件」と魯迅に言及しているけれども、本書の伏流するテーマである、<近代>とその<他者>というアポリアについて、著者らしい犀利な認識を示して、<政治>を<文学>の領域に架橋する、掉尾を飾るにふさわしい講義だ。

*1:著者は、近代日本の精神性について、その歴史的経緯から、「恐怖と屈辱感を味わうことはアジアの後進国にとって近代化の契機となる教化的経験なのだというロジック」を採用したと言っているが、「恐怖と屈辱感」を与えることが「教化的経験」とイコールで結ばれてしまう論理は、今に至るも、私たち日本人の精神性の基底に澱のように沈んでいる、とは言えるだろう。