宮部みゆき『楽園 上・下』(文藝春秋)レビュー

楽園〈上〉

楽園〈上〉

楽園 下

楽園 下



 
 本作には、“埋められる死者”というイメージが、物語の基底に、澱のように沈んでいる。メインとなる事件はもちろん、物語の後半で発覚する殺人事件においても――そして、何よりも、前作『模倣犯』における犠牲者たちである。“埋められる死者”とは、何か。それは、彼/彼女たちが死んだ(殺された)という事実それ自体が、埋葬されるということだ。だから、そこには、端的な「不在」が残される。娘を殺して埋めた夫婦は、逆説的に「不在の存在感」に苦しめられることになるが、『模倣犯』のピースは、この「不在の存在感」を弄んで、事件関係者たちを嘲ったのだった。前畑滋子は、物語の途中で、なぜあの犠牲者たちの声を代弁しなかったのかと、難詰される。はからずも、この“埋められる死者”の声の代弁をした超能力少年――彼もまた“死者”として現れるが、前畑はこの“死者”の代弁に関して二重の屈折を引き受けるかたちで、不作為の咎をあがなうことになる。無論、“死者”の代弁を安易に引き受けなかった、というのは、一般論からいえばむしろそのモラルを讃えてしかるべきものであるともいえるのだけれども、“埋められる死者”たちが、私たちの営む<社会>から、いわば“排除”されたものとして、*1私たちの<社会>に回帰してくる、そのときに、“埋められる死者”たちを、ふたたび弔うことができるのか、という問いとしても、これはあるのだ。そうであるから、前畑は、少年の「異能」を是認せざるを得ない、のだ。――「楽園」を夢見ることの困難さは、絶えず“原罪”を意識せざるを得ないところにある。

*1:だから、「不在」は“排除”の象徴上の隠蔽であり、「不在の存在感」というのは、“排除”されたものに脅かされる事態であるのだ。