斎藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと  存在と愛の哲学』(講談社)レビュー

知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学

知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学



 私たちの生きる現実こそ、「表現」そのものであるとの認識からなされた、この「表現」をめぐっての哲学的な諸考察を収める。ハイデガー、西田、レヴィナスの思索から、「表現」の主宰者たる「言葉」の権能を探っていく。「言葉」の問題は、それを「語る/語られる」という問題に、必然的に直結するだろう。即ち、「語る」という行為と、「語られる」のは何であるかという問題性に、である。前者からは「他者」の存在が主題化し、後者からは「語りえぬもの」が前景化する。さらにこのふたつは、それぞれ確証不可能な「愛」(=「他者」のための行いが、その「他者」に届いたかどうかわからぬような「愛」)と、死体なき「殺人」(=何ものかが「抹消」されたという確認不可能な事実)という発現形態のもと、「表現」の過剰性という問題圏で通底してしまう。この「表現」の過剰性という「現実」は、実は再帰的振る舞いのモチベーションを備給しているのではないか、とふと思った。