佐藤正英『小林秀雄――近代日本の発見』(講談社)レビュー

小林秀雄 近代日本の発見 (再発見 日本の哲学)

小林秀雄 近代日本の発見 (再発見 日本の哲学)


 
 わが国における文芸批評の代名詞的存在を、「近代日本」からの疎外と、そこへの融和という、ひとりの「孤絶した個としての選良」の精神運動の軌跡として描く。「孤絶した個としての選良」とは、「文明を担う選良層である国民」と「土俗のひとびと」との間に挟まれる存在である。が、著者が強調するのは、「ひとびとは、或る局面では選良であり、或る局面では土俗のひとびとである」ということで、これが「近代日本のひとびとを形作っている因子」である。とするならば、「孤絶した個としての選良」は、二重三重にも、いまそこにある「近代=日本」から疎外され隔絶した者であるということになる。更なることには、西欧近代からの移入された「文明」は、「街なかを行く群衆である土俗のひとびとの在りようによって媒介されている」。「土俗のひとびと」とは、いったいどういう存在なのか。この問いが、時代の急展開と同調するように、小林に古典への回帰を促す。一方で、小林は批評の対象を『モオツァルト』そしてベルグソンへと拡げ、「形而上の存在」の思考を徹底せんとするが、周知のようにベルグソン論は中絶を余儀なくされる。小林の抱えた主題に添うかたちで、著者は論を補完するが、私たちは「形而上の存在をめぐる無知を余儀なくされている」と著者はいう。そして、小林は、これを真正面から引き受けた。『本居宣長』における「古事記」=『古事記伝』へのアプローチは、小林にとって、この屈託と折り合う作業でもあったのだった。