それで“自由”になったのかい?



 稲葉振一郎の『「公共性」論』を読んでいて、私が強く想起したのは、加藤典洋の『敗戦後論』と、それに続く、同じく「公共性」をめぐる論考である『戦後的思考』『日本の無思想』である。「敗戦後論」論争から、すでに十余年の歳月が流れているが、当時加藤がほとんど孤立無援の状況だったのにもかかわらず、その後の時代的な情勢の推移を鑑みると、“歴史”は加藤の論の正当性に軍配を上げたと判断せざるを得ない。加藤は一連の論考で、「戦争責任」から「公共性」へと、“文学”というバイアスを(あえて)かけて、主題を移行させているが、底流にあるのは、ハーバーマス流の「市民的公共圏」の理論への、留保ないし懐疑で、これは、稲葉の論にも共通するものである。反面、アレントに対する評価は、加藤が、アレントが公的なものと私的なものを峻別したのを、「近代」の経験を疎外していると批判するのに対して、稲葉はむしろ、「政治からの自由」において、リベラリズムと親和性があることに、一定の評価を与えている(ということは、一定の留保も与えているが)。…………加藤の「公共性」における問題意識は、現代の「公共性」をめぐる議論が、「私性」=「私利私欲」を排除しているということ、「私利私欲」の上に「公共性」は打ち立てられなけばならないこと、ゆえにハーバーマス流の「市民社会」は批判される。稲葉のは、ハーバーマス流「市民社会」を批判するロジックは、加藤のと通底しているが、決定的な差異は、すべての「市民」が「公共性(圏)」に動員されなくてもよい、と考えている点で、なんとなれば、「市場経済」が「公共性」にかかわる(「市民」が負担する)コストを軽減してくれるからである。要するに、洗練された「社会システム」に囲い込まれることで、私たちは「動物化」して暮らしていける、ということで、稲葉は「幸福なホモ・サケル」と、もっとあからさまに呼んでいる。「幸福なホモ・サケル」を生み出すのは、「よき全体主義」への志向性である。稲葉は、この「よき全体主義」の克服に、統治者の後継者問題という、いささか虚をついた回答を提示するが、さて、加藤と稲葉の対立は、とりあえず直接民主主義と間接民主主義のそれと定位できるにせよ、そのそれぞれの公共空間が、「社会的なもの」の暴走を十全に統御することができるのか。戦略的には、前者が「私‐公」の挟み撃ちによって、後者が「公」のテクノクラティックな洗練と再編成によって、ということになるのだろうが、これは、私たちが、“自由”なるものを、どれくらい「親密な」領域に閉じ込めて是とするか、という価値判断に、ひとえにかかっているのだ。

「公共性」論

「公共性」論

日本の無思想 (平凡社新書 (003))

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