根井雅弘『経済学とは何か』(中央公論新社)レビュー

経済学とは何か

経済学とは何か


 
 先日、稲葉振一郎の『経済学という教養』の増補版が出たが(必読よ)、稲葉のいう「貨幣的ケインジアン」の社会的正当性(つまりリフレ・上げ潮派の正当性)を説いているとともに、金子勝セーフティーネット論批判でもある。*1その金子の新刊『閉塞経済』が同じ版元から出たのだけれども、言っていることは、『セーフティーネットの政治経済学』から、ほとんど変わっていない。別に、金子の慢心ではなくて、同じことをいうのも仕方ない政治状況であるからだけれども、でも、素人に向けて、新しい経済学が必要です、なんて言ってどーするんだ、おい。――ということで、稲葉本を読んで、「筋金入りの素人」になったら、本書で経済学“主流派”の歴史を概観しましょう。古典派、限界革命を経て新古典派ケインジアンから新古典派総合へ、そしてマネタリズムや合理的期待形成仮説の隆盛へと、こう記しているだけでワケがわかんなくなってきますけれども、だいじょーぶ、本書には文脈に沿って簡潔な説明が施されています。――で、ワタクシみたいなトーシロにおいては、いちばん印象に残ったのは、サヨクと(ポスト)ケインジアンの交錯(つまり、フリードマン主義者が何故に反左翼の経路を通って論壇ウヨクになるか、という思想構造についてワタクシめが合点したということ。無論著者はそんなこと書いてませんよ)のところと、あと、クルーグマンの序文付きケインズ『一般理論』の刊行ってのは、『蟹工船リバイバルみたなもん? って違うってば。――「あとがき」の「経済学の画一化」についての言及も重要だけれども、「資本主義」という用語をめぐる「市場経済」という語に還元されぬ重要性について、「スミスの「見えざる手」は、(…)各個人が最大の利潤を求めて資本を自由に動かすこと(これが本来の古典派の「競争」である)との関連で出てくる言葉であり、「価格」のバロメーター機能にのみ注目する一般均衡理論とは着眼点が異なっているのである」というのは、「筋金入りの素人」であるためには、肝に銘じておくものなのでしょうね。

*1:稲葉のこの本のモトになった連載で、宮崎哲弥セーフティーネット礼賛から、リフレ派へ転向した、らしい。