浅羽通明『昭和三十年代主義――もう成長しない日本』(幻冬舎)レビュー

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本



 まさに渾身の力作で、著者以外の書き手が同じコンセプトでやったら、気の抜けたものになるか、香具師(マーケター?)の口上めいた胡散臭いものになっていただろう。批評的な誠実さと密度が、高いところで拮抗している。クレしん三丁目の夕日木更津キャッツアイ、そして『模倣犯』などのテクストを読み解きながら、消費社会の飽和状態、即ち「もう成長しない」ことのリアルと、この「成長」の果てに掴まれるべきモラルの位相を探っていく。必然的に、エコノミーの外部にその根拠は求められ、たとえば「地元」主義というような、若手の社会学者たちと同じような結論に合流するけれども、むしろ、戦後の精神史を腑分けするような手際を評価するべきだろう。――さて、著者に異論があるとすれば、それは、「昭和三十年代」という問題設定そのものにある。小熊英二によれば、今現在のノスタルジアは、もしかしたら昭和五十年前後に求められているかもしれないのだ。で、これは、原恵一の時代は七十年代で止まっていいというような発言とも符合する。高度消費社会にどっぷりつかった世代が、社会の中軸を担っている以上、高度成長時代=「革命」とでもいうべき傾斜生産社会に原風景を求めるのは、無理なような気がする。ある種の協働=共同社会の復権において、“生産”的要素は不必要で、むしろ“消費”を介さなければ、協働=共同性を取り結べないかもしれない。って、これって「わたしたち消費」じゃん。