斎藤環『文学の断層』(朝日新聞出版)レビュー

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター


 
 著者の文芸批評としては第二集目にあたるが、精神分析的タームが独自の批評語として機能し始めるスリルを味わえる。“サブカルチャー”的意識を批評的基盤に転換させた大塚英志の軌跡を思い起こさせるが、著者がライトノベルを通して、“サブカルチャー”なるものに迫っているのは、「序」で示されているとおり。ただ、著者の力量が発揮されるのは、いかにもいかにも、といった感のある前半よりも、第三章以降だろう。特に、第五章の「震災と文学」は本書における白眉。一九九五年の「震災」以後、「虚構空間の複数化、多重化」即ち「いったん虚構空間を経ていくことでしか接近し得ない「現実」への回路」が、優れた作家たちによって、主題化されていく。「虚構空間の複数化、多重化」とは、「震災が虚構空間に亀裂を走らせた」結果である。ここから、村上春樹清涼院流水西尾維新などのテクストが一気に、「震災」文学空間の座標上にプロットされていくが、最後に舞城王太郎、そして春樹の「祈り」の言葉がクローズアップされる。「祈り」とは、「複数化・多重化した空間を再接合するための言葉」の謂いだが、「祈り」の言葉は、純粋にコトバに還元されるものなのか、それとも作家性に還元されるものなのか、ジジェクのエッセーの引用からは、両義的な感想が漏れてきてしまうのだけれども。*1

*1:第二章で、いわゆる「ケータイ小説」が取り上げられているが、『DL』系のそれを、「ヤンキー文化」として括ろうとする。この件は本論では決してないのだが、この種の論が他の論者によっても展開されているので、あえて一言いわせていただくが、これはあまりにも粗雑な論及ではないか。セックスと死をめぐる物語は、普遍的に若年層に享受されてきたのではないか。このような“物語”が、「ケータイ小説」以外では、絶大な訴求力をもって供給されなかったことに、やはり本質はあるのだと思う。