洋泉社ムック編集部『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』(洋泉社MOOK)レビュー

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)



 収録論文のどれに賛意・共感を寄せるかで、当然自らの立ち位置が表明されるわけだが、以前、「現在の紛れもないアジールに対する攻撃は、聖域なき社会の流動化を促す、ネオリベ的欲望の線にそって、なされたものではないか」と記した者としては、まず吉田司の見解に賛意を表したい。あとは、ネット上の“告白”を容赦なく裁断・剔抉した鈴木ユーリのものと、あとは巻末に置かれた平川克美内田樹のもの、とりわけ内田のをこの本の締めとしたのは、編集部の自戒と謙抑的な意識の表れだろうが、にしても「この事件が意味するものは?」という問いが「事件の一部」を構成してしまっている、という指摘は重い。自己言及なテロ、というより自己言及性がテロリズムに変化したという、抽象的レベルにしか“事件”性を還元できないとしたら、この観念の化け物は、誰にでも憑依可能だからだ。誰が被害者になるかわからぬ、という不安は、誰が(=私が)加害者になるかもしれない、という恐怖と裏腹なのである。この見地からは、たとえばプレカリアートのテロルという“物語”に回収しようとする一連の流れは、このような「不安」があるがゆえだし、もっといえば、「体感治安」の悪化の問題においても、マスコミの過剰報道に最大の要因があるにしても、自分が被害者でなくむしろ加害者になってしまうかもわからぬという意識が、それを誘因しているとはいえまいか。とすれば、「監視社会」論の文脈というか問題意識も転轍されてくるわけだけれども。