柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)レビュー

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)



 岩波新書新赤版記念すべき1001番目は、柄谷行人の新書初登場作品。「近代文学には、もう何も期待しない」と突き放した柄谷御大の、「近代文学の終わり」以降のマニフェストでもある。NAMが御陀仏になりました、という駄洒落はもう聞き飽きた。
 柄谷の宿敵といえば、周知のように吉本隆明だが、本書を反=吉本の文脈で読むと、「国家は共同の幻想である」とした『共同幻想論』に対して、“主権”の絶対性が国家の本質と説く。なぜならば、“国家”は他の“国家”によって規定されるから(ちなみに、小室直樹は、国家よりも先に国際法が存在した、と述べているが、これは、本書の「世界帝国」のパースペクティヴに対応する)。もうひとつ、吉本翁は“消費資本主義”礼賛の立場から、例えば消費税の極大化こそが“国家”をリコールできると述べていたりしているが、柄谷は、剰余価値の本質が、“消費者”としてのプロレタリア、労働者が自分で作ったものを自分で買う(買い戻す)ところに発生するとして、“消費資本主義”の昂進により、従来の階級闘争が無効になったからといって、資本主義の対抗運動を放棄することを諫めている。――ということで、アソシエーショニズム、ということになるわけだけれども、“国家”が他の“国家”によって規定される以上、全ての“国家”が同時に揚棄されなければ、“資本=ネーション=国家”の三位一体を克服できない(ここで、笠井潔『国家民営化論』の認識に漸近する)。この実現のためには、カントの国際連合論に託して、「各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ」、「たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです」。――柄谷は、これをいわゆる“国連中心主義”とは似て非なるもの、と主張するのだろうが、しかし、実現するには、“国連中心主義”に脱構築的にコミットするほかないだろう。ちゅうことは、小沢一郎に対して、是々非々に対峙するということでもあり、そんでもって吉本翁も小沢一郎を評価していたのだった。…………まあ、これからは“小沢一郎”に対しての何らかの態度表明によって、知識人のみなさんの思想的布置が措定されるんでしょうね。