道尾秀介『向日葵の咲かない夏』(新潮社)レビュー

本日のエピグラフ

 それは、いつもぼくの胸の中にある思いだった。/この世界は、どこかおかしい。(P33より)

向日葵の咲かない夏

向日葵の咲かない夏


 
ミステリアス10 
クロバット10 
サスペンス8 
アレゴリカル9 
インプレッション9 
トータル46  


 ミステリと(主流)文学を繋ぐ問題意識のひとつに“信頼できぬ語り手”というのがある。いうまでもなく、この“信頼できぬ語り手”が、“叙述トリック”をはじめとする各種ギミックに奉仕するわけだが、それでは、この“信頼できぬ語り手”にとって、<読者>とは、一体いかなる存在なのだろう? ――“信頼できぬ語り手”は、<読者>に対して、さもお前を騙してやったという態度を(大抵物語の結末において)取るのだが、実は彼/女は、十分にそれ自身で自足している存在なのだ。要は、<作者>によって、(彼/女自身の意図に反して、あるいは半ば無意識に操られ)<読者>へ向けて、パフォーマティヴに振舞わされる。「私小説」なるものが、<私>を“キャラクター”として仮構=加工しているとバクロしたのは大塚英志だが、ことミステリにおいては、彼/女の(物語内部においての)生活世界や行動規範、モラルといった、一個の人間としてのパトスが、<作者>の奸計によって抽象化されてしまう。「私」をめぐる性別誤認のミスディレクションなどは、その最たるものだ。個々の人間同士の差異が、抽象化をはじめとする作者の恣意的な操作によって、偽りの差異へと差し向けられる。<読者>が“信頼できぬ”とするのは、“信頼できぬ語り手”ではなくて、当然<作者>の方だ。<作者>と<読者>の間で交わされるギミックゲームの、“信頼できぬ語り手”はその素材、あるいはオブジェクトレベルの存在でしかない。しかし、そうであるがゆえに、“信頼できぬ語り手”は、ただ<存在>する。<作者>という創造神の掌から離れて自由に振舞う、というのでなく。<読者>が、“差異”の存在を認知しようが、誤認しようが。いうなれば、「絶対的差異」というべきもの――千野帽子が、奥泉光『モーダルな事象』の巻末解説で見事な近代(そして現代)文学講釈を開陳しており、そこで、“講談師”をめぐる現代文学とミステリの逆転現象を論じているが、「絶対的差異」にアプローチするため、<作者>をオブジェクトレベルにまで引き下げて小説的(文学的?)介入を目指すのと、「絶対的差異」を相対化(分節して仮構する)するため“神”の視点を維持するのと、“信頼できぬ語り手”を結節にして、両者のベクトルは逆方向を指す。
  この物語の主人公が、クライマックスで吐露するのは、この「絶対的差異」であるが故の、絶対的孤独の悲しさだ。善悪、もしくは快不快が問題にならぬとするなら、後に残るのは絶対感情だけである。そしてこの様々な「絶対的差異」は、カタストロフィにおいて、“炎”(自己‐外‐存在!)によって、更なる「絶対的差異」へと成長することになる。あとに残るのは、圧倒的喪失感である。