大塚英志『「捨て子」たちの民俗学』(角川選書)レビュー

本日のエピグラフ

 今の我々は「血」や「遺伝」をただ比喩的に文化現象に当てはめることに慣れているが、しかし、それはある時期までは「比喩」ではなく科学的記述であり、実態を伴うものとしてなされたことを忘れてはならない。(P169より)

「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男 (角川選書)

「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男 (角川選書)



 
 “保守”による教科書運動たけなわだった前世紀末、「天皇抜きのナショナリズム」に言及していた著者は、「天皇」を国家権力に対する抑止装置としてみていた。つまりは「日本」における“<近代>国家”のモデルを構築する際の福沢諭吉の言説戦略と近しい位置に、そのときの著者はいたのだけれども、今現在の彼は、果たして“転向”したのだろうか? 少なくとも、著者の関心は、「天皇抜きのナショナリズム」から「天皇込みのナショナリズム」にシフトを移してきているのは、確実であるように思われるのだ。それは、本書を見ても確認はできると思うのだが。*1…………来歴否認とファミリー・ロマンス。「自然主義(‐文学批判)」とダーウィニズム。「起源の民俗学」者たるラフカディオ・ハーン柳田國男という、共通するこれらの資質を持つこの二人が、しかし決定的な差異を生じるのは、本書に即せば、それは「探偵」という方法・態度におけるモラルの有無がとりあえず挙げられる。柳田の「探偵」的志向=思考は、「犯罪の民俗学」を通して、ある種の社会政策科学へと発展させていく契機はあったが、「再び柳田は「茫洋たる古代歴史」と現在との結びつきを主張する民俗学を語り始めるのである」。このときに、「伝統の遺伝」、その痕跡として言及されるのが「異常心理」というわけなのだが、この発想の原型が、「犯罪の民俗学」にあるのは言うまでもない。「母性」が日本におけるファシズム構築に“動員”されていくなかで増加していった当時の母子心中を、「探偵」という方法・態度を用意しなかったハーンは、「合成物」としての「魂」が“民族”的に「遺伝」するというストーリーのなかに、溶かし込み美化していった。これに対して、柳田は母子心中の増加を、“社会”が小児の「生存権」を放擲したことに、その遠因を求める。ハーンと柳田、今現在の我々「日本人」が、どちらに近しい位置にいるか、いうまでもなく著者はこのことを暗に問うている。更にいえば、ハーンが臆面もないオリエンタリズム謳歌したのに対して、「ハーンの如き帰化観察者」には理解できぬ「心」の領域があると嘯く柳田は、オリエンタリズム批判の“伝統”回帰主義者であるのであろうが、(当時の)進化論的言説が背後に控えているという点で、これがあるひとつのパースペクティヴを獲得してしまったことを可能にさせた、これは言うなれば「民族心理学」というべきもので、このことが現在の「保守」的言説のある種の臆面のなさを可能にさせているのだとすれば、“輸入<近代>”であることの超克を(擬似)科学主義をもって遂行したのが、日本の<近代>の運動のひとつとして、今もなお続いているということなのだろう。著者が「天皇抜きのナショナリズム」に言及していたころに言っていた、「国家にゲタを履かせてもらおうと思うなよ」というのは、今もなお名言であると思う。――さて、19世紀的科学主義の影響といえば、日本の探偵小説も決して例外ではないのだが、「人相学」にコミットした高木彬光が探偵小説作家となったのは、むべなるかな、と言ってよいのやらどうなのか。

*1:すみません。『少女たちの「かわいい」天皇』(角川文庫)で、“転向”の弁を述べていました。……詳しくは述べないけれども、「疎外された「天皇」」を「断念」するよりかは、内藤朝雄のいうような「天皇の象徴責任論」の確立が、建設的であるように思うのだが。