管賀江留郎『戦前の少年犯罪』(築地書館)レビュー

戦前の少年犯罪

戦前の少年犯罪



 すでに各メディアで取り上げられているのだけれども、上っ面だけの紹介で、やっぱり「戦前」は物騒だった、と合点している方のために、改めて本書を紐解かれることをオススメしたい。なぜかって、これは著者の語り口によるところが大なんだけれども、なんというかその、思わず笑ってしまうんですよ。こらえようとしても、顔が歪んでしまふ。俎上に載せられているのは、ほとんど凄惨な事件ばかりなので、この笑いは、もんすごーくどす黒いものであるんだけれども、個々の事件がブラック・ユーモアの様相を呈しているということもあるにはあるが、最大のジョークは、このような現実があるのにもかかわらず、「戦後」、時を経るにつれて“世相”や“若者”たちの内面は荒廃していったというストーリーを共有して、それを再生産させる言説を紡ぐ言論芸者たちと、そのお座敷芸がそこまで通用するという現在の現実である。警察だって、凶悪犯罪における「少年犯罪」は減っている、といっているのに。…………時代が「戦前」から「戦中」へと移行するにつれて、戦時統制が厳しくなり、報道からは「少年犯罪」が影も形もすっかり消えてしまう。「戦前は親殺しはなかったと思い込んでいる方が多いのがこういう報道規制の結果だとしたら、政府の検閲は見事に成果をあげているわけです。半世紀以上のちの現代にまで、虚構と現実の区別がつかないままの人がいるんですから」との著者の皮肉には、嘲笑と戦慄が表裏の関係にあることを、まざまざと見せつけて、感じ入ることしきり。*1ちなみに、このとき十代だったお子たちが、90年代には六十歳以上になっているわけだから、てことは――と、いろいろと勘繰ってしまうのでありました。 

*1:時代が「戦中」へ突入すると、戦争をめぐる過去の歴史的経験の例に洩れず、日本においても、軍事特需によって景気が回復し、少なくともこの間までの昭和恐慌は一息ついた。とりわけ、教育分野では、教師不足の影響で、教員の待遇が改善された。当時「戦争バンザイ」と唱導した教師たちは、それが実感だった、と著者の口調は辛辣だが、これに付け加えるなら、当時の新聞も、大本営発表を報ずる=奉ずることによって、空前の利益をあげていた。要するに、“戦争”で踊ったことに対するある種の疾しさが、「戦後」の総転向の心因となった傍ら、そのことが免罪符としても活用され、「戦中」の総括がやり過ごされた。――これが、現在、「皇国」の亡霊たちが軽薄に跋扈する遠因になっているのではないか。著者の二・二六事件に対する剔抉は、辛辣さが特に極まるくだりである。